集団が嫌いだ。 グループ、会、派閥、主義、家族、民族にいたるまで、すべて嫌いだ。憎んでもいるし、恐れてもいる。

群れぎらい 群れぎらい

群れぎらい

群れぎらい


集団が嫌いだ。
グループ、会、派閥、主義、家族、民族にいたるまで、すべて嫌いだ。憎んでもいるし、恐れてもいる。


群れには特定のアルゴリズムが存在し、それは個体の判断を超えているという。
WIREDという雑誌に書いてあった。

「BOIDS」という映像用のソフトがあるという。これは映画などで鳥などの群れをシュミレーションするものだ。(バットマンリターンズのコウモリの飛行シーン使われたそうだ)このソフトの核になる原理は「隣り合う鳥たちよりも前に出る」「隣りあう鳥たちと一定の距離をとる」「ほかの鳥たちが目指す平均的な方向に整列する」という3つの規則だという。

これらの関数の強度を強めたり、弱めたりすることで混乱やトーラス、群れの動きがおおまかに作れるらしい。この事実は一見、複雑な動きをする集団がじつは非常に単純な規則によっている可能性を示唆している。

群れの動きは長年にわたり生物学者を悩ませていたが、このソフトによって研究は大きく前進したという。数十年前であれば、こういったアルゴリズムを正確に3次元モーションとして再現する技術はなかったのだから、当然といえば当然である。

だがこのソフトが再現するのは飽くまで外見だけであり、その内的原理まで考慮されてはいない。もちろんこれは映像用のソフトであるからだろうが、群れの設計思想は「種の維持」というあまりに単純な欲求に基いており、考慮する必要がなかったのだろう。

もう少し具体的な例を引いてこよう。ある生物学者はイナゴを観察している時に、過度に接近し合った個体同士が共食いするのを発見したという。つまりイナゴの大群が整然と移動するのは、個々の正確な意志や何かの統制ではなく、非常にシンプルなルール、言い換えれば「群れの意志」に従っているというのだ。

これらの事実は群れを形成した場合、多かれ少なかれ個々の意志を超えた「群れの維持」に奉仕しなければならないということを指し示す。それは群れのアルゴリズムに従うことにほかならない。

人間の例を考えてみよう。
たとえば集団下校。表向きは協力し、大人の目のあるところを下校させることになっているが、その実、誰かが犠牲になれば他の誰かは犠牲にならないというシステムであるし、それが群れでいることの最大のメリットだ。(もちろん破壊や攻撃の規模にもよる)
もしくは軍隊。縦に並んだ兵は、誰かの死をもって軍を前進させるためのものである。

つまり群れの目的は個体の目的の総体ではなく、「群れを持続」することなのだ。しかしここにはパラドックスがある。

個体の側の利益である。
個体は群れを形成することで、より大きな敵を倒し、犠牲を最小限にし、種の繁栄を容易にする。むしろそうであるからこそ、個体は群れを形成するのだ。そのためそれぞれの個体はあたかも自由意志によって、自発的に群れを形成していると感じることだろう。

これが多くの生物学者を悩ませ、映像用のシュミレーターでいとも簡単に再現できた理由であろう。それぞれの個体の自由意志から発生したかに見える群れの行動原理は、個体の意志の総和から離れ別のアルゴリズムに移行しているのだ。

一人ではしないことを群れは行う。
大声で笑う、わざと卑猥な言葉で話す、場所を汚す、ひどければ人を襲い殺す…
群れに属するとは、この内集団への隷属と、外集団への無配慮を伴う。

だが私たちはこの「群れ」に自由に入ったり、抜け出たりすることはできない。なぜなら民族、思想、教育、年齢、あらゆる群れとして、すでに内的・外的の双方から強固に規定されているからである。

それは人類という種の制約である。私たちは大規模な共同体制によって技術や歴史、文化を発展させてきた。だが、それゆえに群れには細心の注意を払うべきだ。

群れに属しつつ、群れを忌み嫌うこと。
それは目の前の人物を、できごとを、そのものとして、そこに無限の細部を見出すこと。

私たちは以前とは異った「豊かさ」を見出す時代に差し掛かっているのかもしれない。


参考にした記事(WIRED)