長かったような、短かったような雨が明けましたね。 とても久しぶりに演劇(群馬大学演劇部テアトル・ヒューメ 第120回公演「蛹のほね」)を観てきたので、少し文字にしようと思い立ったのですが、もともと演劇は詳しくないし、友人に誘われて行ったので手紙文体で書き残してみ...

かもしれない 〜「蛹のほね」をめぐって〜 かもしれない 〜「蛹のほね」をめぐって〜

かもしれない 〜「蛹のほね」をめぐって〜

かもしれない 〜「蛹のほね」をめぐって〜


長かったような、短かったような雨が明けましたね。

とても久しぶりに演劇(群馬大学演劇部テアトル・ヒューメ 第120回公演「蛹のほね」)を観てきたので、少し文字にしようと思い立ったのですが、もともと演劇は詳しくないし、友人に誘われて行ったので手紙文体で書き残してみます。(書いていたら約4000字になってしまいましたので、お時間がありましたらご高覧ください。)


「あっついですね。」

その日の群馬の最高気温は37度だったそうなので、主役(役名:少女)のこの言葉は演戯のようでも、観ている側への投げかけのようでもありました。

こういった現実と虚構を横断する技法が、演劇においてどれほどポピュラーなものか知らないのですが、この偶発的で強烈な蒸し暑さ(演劇小屋はほったて小屋で、冷房がないばかりか窓という窓は目貼りされ締め切られていた)と相俟って話しかけられている気になりました。

物語はそれまで舞台の隅で絵を描いていた少女のモノローグから始まります。そこは少女の部屋で、四隅には色とりどりの服や紙が散乱していて、天井からは裸電球がぶら下がり、人物が登場するたびにその電球をつけ、退場の際に消します。そうして物語が進行するのです。(僕にはこれが能の舞台のようだと思ったのですが、長くなるのでやめましょう。)

その裸電球を引っ張って明かりをつけ、おばさんが部屋に入ってきました。見た目はお母さんのようなのですが、少女はおばあちゃんと呼んでいます。少女はその女性が母親であることを認めたくないかのように、「お菓子がほしい」とわざとらしく甘えてみせます。

この時の声は、それまで地声で話していた女性が、知らない人からの電話に出たときのような嘘っぽいもので、劇の最初のポイントだと感じました。
主役の人の声は少し変わっていて、基本的には発声のポジションが高く、鼻腔を強く震わせて倍音を強調するタイプなのですが、ハスキーがかっていて(たぶん非整数次の倍音を多く含んでいる)基音と倍音が重なって聞こえました。この声は全編に渡りこの物語を虚構として、虚構らしく引き立てていました。

母親との会話は概ね、少女が引きこもりであり、それでも母親や知人がなぜかその部屋に訪ねてくるという説明と、主人公が無気力であるのに対して、母親は「若い人には可能性があるのだから…」と気休めを返すのが主であったと思います。

次に姉、それから先生、後輩、幼馴染み、社会人が交代で登場します。

この物語の骨子を書けば、少女が何人かの人々と触れ合うことで影響されるという、いわば星の王子さまタイプの物語に分類できるでしょう。

しかしその関係は少し特殊でした。少女以外の登場人物はほんとうに実在の人物かどうか怪しかったのです。というのも、途中で少女は「つぎは宇宙人にしようかな」とも言っていて、まるで電灯のスイッチを入り切りするように妄想上の誰かを登場させているようにも取れるからです。

ならば完全に妄想の産物なのか、といえばそうでもなさそうです。この物語で特権的な役割を演じる黒い服の人物がいたからです。彼の役名はパンフに載っていませんでした。あとからTwitterを見ていたら、手違いがあったようなのですが、少し出来すぎた偶然にも思われます。

この黒服の男は映画で使う「カチンコ」を持っていて、最初は劇中劇がなされるとき、あとは少女以外の人々が話し合うときなどに登場して、物語をカットします。そうすることで、少女の妄想の人物はその身分が明らかになり、つまり「おばあちゃん」が「お母さん」へ、「友人」は「姉」として、彼らはお互いにしゃべり合うのです。

ひきこもったことがある人ならば理解頂けると思いますが、ひきこもっているときは、「あの人」や、「あの先生」はぼくになんて言うだろう?ばかにされるかな、それとも励ましてくれるかな…という具合に妄想が広がるものです。

これはたしかに妄想なのですが、それでも実際にいる人のイメージなわけですから、完全に妄想であるとも言い切れません。そういう意味でこの劇は他者をめぐる物語でもあるように思うわけです。それは劇中でも描かれていて、最初は好意的だった少女が母親を疎ましがったり、先生に怒るシーンです。

はじめは空想でしかなかった人たちが現実味を帯びてきて、その空想の主体にさえコントロールできなくなってしまうのは、自分で口ずさんだはずのメロディーが頭から離れなくなってしまうのに似ていますね。

このあたりに、ひきこもりを劇で演じる固有性(面白さ)があるように思います。

一つには主役がひきこもっているため、それ以外の役者が、いま実在の他者なのか少女のイメージの上の他人なのか、見ている側がわからなくなるからです。これに加えて、主役は「事実と虚構(可能性)」を撹乱します。なぜなら、主人公はやらないこと(ひきこもり)をやる(演じる)からです。

この「事実と可能性」の撹乱という劇形式は――複式夢幻能の真骨頂でもある点ですが――ある登場人物がどのような身分なのか(実在なのか妄想なのか、生者なのか死者なのか)を不確定にします。冒頭の「あっついですね。」の投げかけと同様、演劇空間と現実空間を侵犯し、それによって「嘘の嘘」(真実“かもしれない”)が露わになる、演戯と現実が交差する瞬間を作り出します。

もう一つはこの物語のテーマ(内容)に関わる「なる」という問題系だと思うのですが、一言では言えないので少し遠回りをさせて下さい。

レヴィナスというフランスの人が、「怠惰(paresse)」とはそれができるにも関わらず、やらないことにあると言っていました。ひきこもりに当てはめるなら、それが辛いのは、社会へ出てもいけるという可能性があるからとなるでしょう。(可能性が皆無であり、想像もつかなければ苦痛もない。)それは「かもしれない」の苦しみです。

少し物語に戻りますね。

お母さんのつぎにお姉さんが登場し、後輩が登場するのですが、この後輩は主人公の過去を担っています。(突然の明言!)というのも、母親や姉は自分がそうなる可能性だとすれば、後輩はそうであったかもしれないからです。

考えてもみてください、年上の姉は自分よりも早く恋人と付き合ったり(そうでないこともあると思いますが)就職したり、結婚するわけですし、母親とは自分がなりうる役の一つだからです。

それに対して後輩とは自分の通ってきた道をある程度、歩んできた人です。ですからこの劇での配役も、このメタファーを使用していると考えるのが自然でしょう。そしてその後輩は「昔の先輩は輝いていて、今のひきこもっている先輩は先輩じゃない」と言います。それは自分が思い描いていた自分と、今の自分がズレているということを暗示しているのかもしれません。

ひるがえって、幼馴染みは同じ時間を共有してきた人です。この人は自分の好きなことがはっきりしている人で、たぶん将来の夢もあるし、今の環境に適応できている。

主人公はこのようなズレた時間軸の、しかし自分とどこか重なっている人々、つまり自分であってもおかしくない人々、自分「かもしれない/なかった」人々と出会います。これが先に書いた「なる」のテーマです。

少女は今の自分と、あるかもしれない、そしてあったであろう自分の間に挟まってしまい身動きがとれなくなってしまっているのです。

だからひきこもっているのですね。

時間と演戯(jeu)の関係について、「演戯には歴史がない」と(またもや)レヴィナスという人が言っています。演戯で人を殴ったことを考えると面白いですね。それは事実として殴ったことにはならないわけです。そしてその前後関係は「現実の時間のあの時に殴ったから、アザができた。」というように時間に位置付けることができません。

ここで、ふたたび演劇とひきこもりが交差します。

この演劇の時間を、「あるかもしれない」という“可能性の時間”の間に挟まってしまったという意味で「無時間的」と呼ぶなら、そこでは他者と関係がもてません。なぜなら劇中でどれほど誰かと誰かが話し合っても、それは演戯だと片付けられてしまうからです。ここだけ時間が滞留してしまっているのです。

他者との関係から身を“退く”という側面においても、演劇(フィクションに身を投じる)とひきこもりは交差しているのかもしれません。

とはいえ、この他者と触れ合えない喘ぎは誰でも感じていることでしょう。なにかを好きになって、つよくつよく抱きしめてみても、言葉を交わしてみても、どこか虚しい。

ほんとうは好きじゃないのかもしれない、そんな不安がする。

でも大人(劇では「わたしは社会の歯車!」と言って登場します)は、その深淵をまるで無いかのように振る舞う生き物ですね。この人は写真という夢を追っていたのですが、今では追えなくなっていることが説明されていて、少女にとっては嫌な可能性ですが、ありそうな可能性です。

物語に戻ると書きつつ、戻ってなかったような気もしますが、概ねの登場人物の配置は書き終えられましたので、そろそろ物語の核心へと進みましょう。

じつはこの物語の最後はほとんど、冒頭と変わらないシーンになっています。少女の周りがわーわー言って、彼女もそれに反発したり共感したりするのですが、特にこれといった解決策が示されるわけでも、明確なドラマがあるわけでもなく、少し唐突に絵を描き始めてしまうのです。

その時の音楽がとても明るくて、大団円の雰囲気を醸しているから、終わったのかと感じるだけで、ドラマとしては尻切れとんぼの感が否めません。

というのは嘘です。

ぼくは感激しました。だってもし、この劇が時間の間にクリスタライズされた少女の物語であれば、その内部ではなんの脈絡も、論理的な前後関係も無く、外気温によって氷が溶けるように劇が終わるはずだからです。むしろ無時間のなかで主人公が変化するはずがない。

この物語がいささか散文的であるのはこのためでしょう。内部構造として時間が滞留していて、それぞれの配役は走馬灯のように現れては消え、現れては消えていただけだから。

もしそうだとすれば、主人公は描くのを止めたときから、描き始める運命にあったことになります。(運命とは内的な規定ではなくなく、それを超越した規定です)芋虫が蛹になり、蝶になるようなもので、論理性もドラマない。そこにドラマをみるとすればそれは、私たちの主観的な判断ということになります。それを裏付けるように、少女は最後にこう言います。

「ねえ、何色になると思う、これ?」

それは何色に「なる」のでしょう?蛹は蝶に「なる」であって、蝶で「ある」のではないのとおなじですね。

ここで形式(虚構と現実の撹乱)と、内容(「なる」の主題)が鮮烈に融即します。劇にひきもった、劇外とは交流できないはずの少女が、「何色になると思う?」と私たちへ問いかけているからです。時間に閉じ込められた少女が、演戯という枠を超えでて他者へと触れ合おうとしているのです。

さきにこの物語は、他者との交流を拒否した時間のクリスタライズだと書きましたが、少女が冒頭で「あっついですね。」と観客に言葉を投げたところからじつは、静かに裏拍のように時が刻み始められていたことになります。

たしかに劇の内部において、ひきこもりの部屋のなかで、時間は止まっていました。しかし、誰かと何かを共有しようとした時から、そして問いかけた時から、ほんの少し時間は動き出すのです。それは演劇という大嘘の舞台だからこそできる、それにしかできないささやかな告白。ふれようと、だきしめようとしても、いや、するからこそできない表現。

これから暑くなりそうですね。