システムエラーとハッキング(後) みんなと別れてから、僕と友人はコーヒーショップでとりとめもなく語り合った。この会話がとてもおもしろかったので少し書き残しておこう。彼はこんな喩え話をしてくれた。

パンドラの匣 ―3(後)― パンドラの匣 ―3(後)―

パンドラの匣 ―3(後)―

パンドラの匣 ―3(後)―


システムエラーとハッキング(後)

みんなと別れてから、僕と友人はコーヒーショップでとりとめもなく語り合った。この会話がとてもおもしろかったので少し書き残しておこう。彼はこんな喩え話をしてくれた。


「崖伝いに湾曲した二車線の道路がある。そこに10台ほどの車がのろのろと走っている。そこへ俺の車がつく。もし追い越したければ対向車線へ出てその10台を抜かなかればいけない。この前の車にイラつく」と言うのだ。

どういうことかと聞くと、まず最初の一台が走っていて二台目がくる。すると二台目は一台目を追い越しさえすればいいけれど、追い越すときに前から車が来たら正面衝突してしまうから、二台目は前の車にくっついるほうが安全だ。

次の車も、その次の車も同じように保身することでこの10台の車列が形成される。すると遅れてきた俺はこの10台を追い抜かなければいけなくなり、そのリスクを押し付けてくる前の10台の保身が気に入らないと言うのだ。

それでもよく分からないと言うとまた別の喩え話をしてくれた。

ある豪雨の夜、彼が友人を駅まで乗せて行った帰りに進入禁止の道で警察に捕まったというのだ。彼は標識も見えなかったし、他の車も走っていないのだから問題ないはずだと言ったらしい。

けれど警察はルールだと言いはって譲らない。一時間ほどの口論のすえ、警察管も彼の事情を理解したが、それでもルールであり、自分一人の責任においてはどうすることもできないと言われたらしい。

つまり、彼も警察官も規則の根本的な社会原則(事故の防止)を共有しているものの、硬直したルールのせいで無駄な労力と時間をかけたことになる。加えて警察官はそれを認識していながら、改善しようとしない怠惰が気に入らないというのだ。彼はそれをシステム・エラーだと言っていた。

じつに理系ぽい言葉づかいだが、わかりやすい喩えだと思ったよ。社会規則を「ある目的をもったシステム」だと見なすなら、今回のような場合はシステムのエラーであり、もしプログラムコードであればif()と書いて修正すべき事態だからね。

けれど、このifを書き込むのに異常な労力がかかるのは君もすぐに分かってくれると思う。学校や病院の糞くだらないルールの大半がこのようなものだけど、それを変えようとすると誰も責任を取りたがらないので、書き込み権限をもつ人物の説得にとても労力がかかるんだ。

だから多くの人はそんな交渉をしようとしない。そしてこれがさっきの車の喩えと繋がってくるんだ。二台目も三台目も一台目の問題を理解しているけれど、労力や危険を嫌がって保身する。そうすると、その後ろの車はもっと手間取ることになって、責任を後続車に上乗せしていく。

この保身と責任転嫁を平然としている、羊のような連中を彼は嫌っているというわけだ。

僕はそれに対して全く同意できたけれど、同時にその保身する人々のことも痛いほど理解できてしまった。

弱い人々は長い物に巻かれなければ生きていけない。これが社会保障の根本的な考え方だろう。もちろんその車列にいる以上は、一台目が急に止まれば後続車は軒並み衝突することになるし自分もタダでは済まないことを知っている。

かと言って対向車線へ出てしまっては、いつどうなってしまうのかわからない。もし全車両を追い抜けたとしても、その時は「前進」という観念さえ失いかねない。それは怖いことだ。

特に入院していると、いわゆる社会的な弱者に出会う。彼らは大きな規則に歯向かうなんて夢にも考えない人たちだ。

ヘタすると大きな規則に不満も疑問も抱いていない。ある患者さんが「入院生活にストレスを覚え始めたら、退院の時期が近いということなんだ」と言っていたのを思い出すよ。

そんな話をすると今度、彼はニュートンの話をしてくれた。彼はニュートンを尊敬しているらしい。ニュートンが万有引力を発見したのは誰でも知っているよね。彼はその過程について教えてくれた。

ニュートンはりんごが落ちるのを見て、すぐに万有引力を思いついたのではないと言う。その当時、支配的な重力(という概念はなかったわけだけど)の観念は、りんごが神である地面に接したいというものだったらしい。

けれどニュートンは自分がりんごを投げた時のことを考えたという。強く投げればりんごは放物線を描いて落ちる。ならもっと強力に投げたらどうなるだろう?地球は丸いようだから、一周して自分の頭に頭に当たるのではないか。だとしたら、ある一定の速度以上で直進する物体は永遠に落下することがないのではないか?と想像したという。

これが古典力学を基礎づける万有引力を発見した瞬間らしい。

ぶっとんでる。僕はたぶんそう言った。君もそう思うよね。このニュートンの話とさっきの話はつながらないようでいて、つながっている。

というのは、どちらも大きな前提を鵜呑みにしていないからだ。僕はそれを霧に例えた。つまりニュートンは濃霧のなかにいたんだ。

当時の他の人達は神の仮説を受け入れていたから、視界がひらけていただろう。対してニュートンはそこまで世界がクリアに見えなかった。

だから彼は前方を妄想して、霧を霧として正確に捉え直してしまったというわけだ。

それは多くの偉大な哲学者にも共通している。古代ギリシア哲学以来、存在論というジャンルがあるのもそのためだ。「なぜ存在してるのであり、存在していないのではないか」なんて、普通は考えない。

けれど、彼らはそれがまるで濃霧に包まれているように感じたのだろうね。わけがわからない。目の前も見えないってね。

君もそう感じる夜があるんじゃないかな。人生の意味も目的も、社会も友人も何もかもが不定形で、曖昧に歪んでしまう夜。

この濃霧こそ、君が想像の翼を広げてみせるチャンスなんだ。ここがゼロ地点なんだ。ここからは何処へも行けないし、ここが終着地点だ。距離や方向という概念さえ崩壊してしまっている。

ただ「ある」だけの状態。

ここにあって、それでも僕は「君」がいるように思えるんだ。なんの根拠もないけどね。
  1. 霧の表現はきのくんの平易な感じがでてるよね
    僕はこの表現好きだ

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  2. 平易は嬉しいな!
    論理展開とかはあまり親切にしないけど、単語は平易にというのがモットーなので!!

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