誕生の不都合  先日、誕生日だった。君からも「おめでとう!」とメッセージを頂いたけれど、釈然としない。とはいえ君もまた釈然としない様子でメッセージを送ってくれたことが嬉しかった。 

パンドラの匣ー4ー パンドラの匣ー4ー

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誕生の不都合 

先日、誕生日だった。君からも「おめでとう!」とメッセージを頂いたけれど、釈然としない。とはいえ君もまた釈然としない様子でメッセージを送ってくれたことが嬉しかった。 


FBなどでもお祝いの言葉を頂いたけど、FBは誕生日を教えてくれるし、なんだったら自動でその日にメッセージを送ってくれる。僕はよく知らないけど、自動生成だってしてくれるんじゃないかな。 

FBというプラットフォームは新しく導入された絵文字のように、人を徹底的に定量化して扱おうとしている。確かに人は(ハイデガーを真似して現存在と言ってもいいのだけど)量によって測ることもできる。けれど、僕は早くその先が見てみたいよ。 

ITが「量から質へ」というテーマを掲げてからもうだいぶ経っているし、少しずつノイズを許容しはじめてはいるものの、まだまだ量化を突き抜けてはいない。(僕は人を徹底的に量として扱うその先に質が見いだせると思っている) 

僕と君が、僕と君として向かいあうように、もしくは隣り合って座っているようにならないかな。ITは確実に人間のニューロネットワークを模倣する傾向にある。単純な電気信号が、創発的に新しいゲシュタルトを形成する未来はそう遠くないはずだ。 

そう言ってもFBでのお祝いは嬉しかったよ。歳をとることが喜ばしいもののようには思えないけどね。 

小さいころからの疑問。 

とりあえず、お誕生日はプレゼントとケーキがでたから喜んだけれど、お誕生日があったって雨が止むわけでも、学校が休みになるわけでもない。むしろ自分の生と社会との「軋轢」とでも言うべきものを感じたのをよく覚えてるな。 

それでも世界は廻っているんだなって。 

なら、誕生日は完全に自己中心的な出来事なのかな。不思議の国のアリスのお茶会が教えてくれるように、誕生日でない日をお祝いしたってなんら構わない。その意味で、誕生日はとても恣意的で自己中心的かもしれない。 

とはいえ、完全に自己中心的かと言えばそうとも言い切れないよね。お誕生日はお祝い「してもらう」ものだから。つまり、つねに他人との接触を伴う。小さい時であれば、親はその日に限って好きなものを買ってくれるし、うまくすれば友人からもなにかもらえる。 

一見すると自己中心的なイベントなんだけど、そのじつとても社会的な儀式だと思うんだ。 

僕の場合、ほとんど他の人からお祝いをしてもらった記憶はないし、お誕生日会なんてものに縁はなかった。なにかの集まりで偶然じぶんの誕生日だったりすると、みょうに照れくさくて、なんだか申し訳なく感じた。だから他人の誕生日をお祝いしたことも、お祝いされたこともほとんどない。 

与えることも受け取ることも不器用なんだ。 

そんな僕だけれどあたかも当然のごとく、患者さんたちからもお祝いの言葉をいただいた。そして繰り返しになるけれど、君からもいただいた。君に出会ってから、僕ははっきりと変わってきているところがあるね。 

そうでなかったらこんな病院では誰とも話せず、ただ孤独だったろうと思うよ。もちろんそれはそれで幸福なことだよね。他人とかかわるのは厄介事いがいの何物でもない。他人とかかわらなければ、心の平穏を乱されることもないし、余計な心配事もかなり減る。 

けれど、なんの因果か僕は他人との関係を模索しはじめている。苦手な方へ苦手な方へ行くのが得意なのかもしれない。君にもそんなところがある気がするな。 

いま勉強しているレヴィナスという人の中心的なテーマは「他者」だったし、僕のみるところバタイユもレヴィナスとは違った他者について考え続けた人だと思う。僕にとってのアートはコミュニケーションに他ならないし、この文章だってその一環だ。 

いったいぜんたい君は誰で、僕にとってなんなのだ。 

その「現われ」のひとつが誕生日という社会儀式だと思ったんだ。君はどうして『不思議の国のアリス』のティータイムでは誕生日ではない日をお祝いしているんだと思う? 

たぶんだけど、あそこには「外側」が無いからなんだ。時計は壊れてしまっているし、ネズミは眠り続けている。(寝るって必ずひとりでやることだ)時間も他人もないから社会儀式が崩れてしまっているんだと思う。 

社会儀式は定期的に外からやってくる。とくに誕生日は生まれてから一定のリズムでやってくる。 

まったく無意味にそして恣意的にやってくるんだ。社会ルールがそうであるように。だから突き詰めて考えれば、誕生日に意味なんてないんだ。むしろ突き詰める手前に意味がある。いや、バイオリズム(これは生体リズムという意味ではなくて、生リズムとでもいう意味で使っている)という単なる出来事に意味をつけているのかな。 

いずれにしても、それは純粋な存在の現れの側や自然現象の側にはなくて、そのうえに築かれているんだ。かと言って、FBのように完全にこちら側にあるものでもないと思う。 

向こう側とこちら側の間に「ふと」あるような気がするもの。 

ほんとうは入院生活について書くつもりだったんだけど、いつの間にか話題がそれちゃったね。そんな回り道をしている間に、ワニさんは退院してしまったし、ビーバーさんも退院が決まった。それについても嬉しいお知らせがあるんだけど、それはまた今度にしよう。 

あ!あとこのページのレイアウトを少し変えたんだ。(それについてももう少ししたら書きたい)コメント欄をこの文章のすぐ下に来るようにしたよ。もし君の気が向いたらなにか書いてくれると嬉しいな。
  1. 「はっきりと変わってきているところがある」って言葉が表されるように、前よりも一段と手紙っぽさが増した気がする。
    でもそれが外向性の増長によるものなのか、その反対なのかは分からないね。

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  2. いつもコメントありがとう!
    なにが変わってきているのか、僕自身よくわかってないんだ。ただ、だまし絵のようにどこか変で、なにか変わってきている気がする。
    でもここは僕にとっての実験室だから、手紙形式が板についてきているなら嬉しいな。

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