また春だ。春がくる度に僕は落ち着きがなくなる。

レポートは26です。 レポートは26です。

レポートは26です。

レポートは26です。


また春だ。春がくる度に僕は落ち着きがなくなる。

自分の中だけ気圧が下がって、外界からじわじわと何かが染みこんでくるように溜まっていくのだ。空が灰色に濁っていて僕はそれに押しつぶされそうになる。その強い風に翻弄されるようにして内田ユイさんの個展「シーク・ユー」に入り込んだ。

僕は楽しい展示を観ると誰かに話したくなってしまうから、言葉にするけどこれは批評でもなんでもない。無線の用語を拝借すると「Hello CQ」という、送信者が発する呼びかけへの応答のようなものだ。そしてRSレポートは26、つまりかろうじて理解でき、電波強度は適切といった感じ。

今日はトークショーでTYM344さんという方と内田さんがお話になっていた。小さい室内に蜂の子みたいに並んで話を聞いたもんだから、気もそぞろであまり覚えていないのだけど、TYMさんが内田さんの«Scene:826(オフィーリア)»という作品について、「セル画のお化けみたい」だと言った言葉が窓の隙間から舞い込んだ桜の花びらみたいに心に残った。

ドタバタとトークを聞きに来ていたので、それが終って僕はやっと全作品を丹念に観ることができた。

内田さんは眼科画廊を入って手前の奥二部屋を使っていて、右手の部屋にはいると中央に配線が剥き出しにされた機械のような物が高さ1メートル程の台に置かれており、その周りを取り囲む壁には二面の映像作品が映されていた。その映像の下にQSLカードと呼ばれる無線で応答をした際に記念として取り交わされるカードと、そのカードの送付元が世界地図にピンでマッピングされている。

どこかの基地のようでもあり、儀式の祭場のようでもあった。どちらにしても、そこには体臭のような人の残り香が漂っている。室内には黒い小さなスピーカーが二つ置かれ、そこから無線の音と思しきノイズが流れていた。中央に置かれた台の上の機械のようなものには、モールス信号を打つ「電鍵」と呼ばれるものが置いてあった。

壁の映像では車のライブカメラから撮られたような、自分が道を走っていくように感じられる映像が流れ、そこに少女とも少年ともつかない中性的な人物の横姿のイラストが重ねられていた。まるでその彼(さしあたり彼と呼ぶ)が風のなかを彷徨っているようだ。彼の眼と視線はどこか彼方を見ているようで、とても印象に残る。

電鍵から構成された機械を中心に、僕はぐるぐると円を描くように展示室を見て回った。それから隣の部屋にある内田さんのポートフォリオを拝見したら、「記憶の在り方を考えると頭の中に1枚のイメージボード、もしくはGIFやVineのようなループする動画が残り続けているように思う。」と書いてあった。

たしかにこの部屋は記憶を象徴しているのかもしれない。けれど僕には少し違って感じられた。記憶というよりは「過去」という方がしっくりくる。

過去は記憶と違って、そこに在ったという事実を実感や情動を伴わずに伝達してくるからだ。記憶がどれほど混濁しても「そこに在った」と教えてくれる客観的な指標。

考えてみればモールス信号もまた「在った」という事実から成り立っている。今あるのは「ツー」か「トン」か「無音」であって、その意味が定まるのは「在った」という現在から過去を眺めるときだから。

一歩、未来に進まないと定まらない意味。けれどそれは短い映像がリピート再生されるように円環を成していて、いつまで経っても到達できない。そしてその部屋の中心には役に立たない廃墟のような機械が置いてある。

アルミニウムでできた弁当箱のようなケースが開けられ、内部の配線が露出していたがその線がまるで意思をもった粘菌のように展示台の上に広がっている。機械がもはやケースのなかに入っているのをやめて、外の空気を求めて出てきたようにも見えるし、誰かがケースを無理やりこじ開けてなかをぐちゃぐちゃにしてしまったようにも見える。いづれにしても機械は壊れていた。

そこにあった機械はその機械性(有用性)を剥奪されてしまい役に立たなっているのだ。使えない機械。これほど無意味なものはないはずなんだけど、廃墟がそうであるように、もはや使えなくなったもの、非−有用なものには人を引き付ける磁場のようなものが生まれる。

もはや死んだ機械をすこし眺めてから、僕は隣の部屋に進んだ。


僕が彼女の作品を初めて観たのは2015年のことらしい。ポートフォリオによればそうなる。この画廊に誰か別の人の作品を見に来て、たまたま通りかかって可愛らしい名刺をもらったのをよく覚えている。その時の曖昧な記憶と、今回の展示を比べると「手つき」の初々しさが形式化されているように思われた。

もう一つの部屋はインスタレーションの部屋とは打って変わって、絵画的な作品群が額に付されて展示されていた。けれどメディウムはカンバスではなくアクリル板だ。その裏側からダーマトグラフですこし荒い線が引かれ、その内側を塗り固めるようにアクリル絵の具で塗装されていた。

この部屋でまず目を引くのが部屋の天上角に吊るされた、«Scene:826(オフィーリア)»という作品である。TYM344さんの言葉を借りると、セル画のお化け。

なぜお化けなのか。

それは帰ってきたものだからだと思う。数年前に廃止されたセル画(これは処理に手間がかかるらしく産業廃棄物になる)の技法を復刻して、サイズも大きくしているからだ。バージョンアップして戻ってきたセル画。

けれどここにもう少し僕が付け加えるなら、“非−有用性”と“不気味なもの”というフレーズを足したい。当然だけど、ある目的を持ったもの(仮に道具と呼ぼう)からその有用性を引き抜くと、それは役に立たないものになってしまう。

役目を果たしたアニメのセル画は大量に叩き売られていると彼女はトークのなかで言っていた。処理も大変だから、純粋に不要な、役に立たない、無為な(desoeuvrement)ものとなるのだ。アニメはテレビで放映されることが作品だから、その途中で使われた部品はあくまで目的のための手段でしかなく、作品とは呼べない。

内田さんの作品では、その役に立たなくなったものが、役に立たないということを武器に帰ってくる。まるで亡霊だ。特に作品はアニメという前後の連続性から成り立っているモチーフを使っているから、描かれた人物はどれも、前後を切り取られているように見える。けれど前後があるように見せかけて本当はないのだ。なぜなら亡霊じみた虚構だから。


フロイトという思想家が「不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのもであり、それが抑圧された後に回帰してきたもののことである。」と言うように、内田さんは技術の進歩によってもはや有用ではなくなったセル画というフォーマットを回帰させている。

そして彼はこの不気味なものを「現実の経験では考えられないほどに強め、多様化させる」作家についても面白いことを言っている。「〔…〕作家は、自分ではすでに克服したと信じている迷信がまだ存在していることを、わたしたちにこっそりと教えてくれる。いわば私たちを欺いて、ごくふつうの現実の世界を描くとみせかけておいて、現実を踏み越えるのである。」

現実を違和感に満ちたものに変容させると書いてもいいかもしれない。不要になり、捨てられた役に立たないものを拡大して描き出すことで作品を、日常的な意味の連関から外してしまうのだ。そうすると作品は「〜のため」(ハンマーなら叩く“ため”)という目的から切り離されて、宙にふわりと浮かび上がる。

切り取られたシーンは前後を暗示するが、その先を一切語らないように、彼女の作品は物語を匂わせつつそれを裏切っている。春の風にのってきた花の香りのように、人を立ち止まらせる一瞬。ならば、ここにはその一瞬しかないのだろうか。けれど、もしかしたら過去もないのかもしれないし、未来もたぶんない。

あるのは虚構の過去、亡霊が要請するあべこべの歴史。

亡霊が紡ぎ語る過去は、さっきのQSLカードが証明する過去ではない。亡霊が亡霊なりに語り直した過去であって、歴史のなかに位置をもたない時間だ。だからこの時間はだまし絵のような円環の時間をもつ。

自分で自分の存在を肯定するための虚構。

この虚構にもっとも敏感だったのが、モダニズムと呼ばれる芸術運動だった。芸術とはなにに立脚するのか、それが彼らの問であり、クールベ、もしくはマネが切り開いたこの道は自らの起源をその絵の具の物質性に見出した。「絵画とは絵の具である」というのが彼らの答えだ。

けれどこの自明性をつきつめた結果、芸術は自らの足場を危うくしてしまい、自らを虚構だと自嘲するような「現代アート」という“なんでもあり”の世界を創りだした。この世界の最大の問題はそれが作品なのか、芸術なのか、誰にも担保できないことだった。

彼らの問いかけは現代にもつながっている。

その問いかけの一つの形が内田さんの「seek you」だと思う。そして僕らは初めて展覧会の題名へと行き着くことになる。

展示の題名「シーク・ユー(seek you)」は直訳すると「君を捜す」となる。これは無線を開始するときに発する「もしもし」のようなものらしい。ただ日本語の「もしもし(申す申す)」が“私”が申すのに対して、CQ(seek you)は「“君”を捜す」なのだから展示の最初から「君」がいる。

けれど「君」って誰だろう?

この展示において、ひとつ確かなのは君がいることを“前提”としていることだ。もしかしたら、僕らはすでに作品の一部として組み込まれているのかもしれない。あたかも無線の発信者が受信者の存在を疑いながら、躊躇いながらも前提とするように。

亡霊が、自分が、自分の過去を語ろうとする試みは失敗を繰り返す。作品は自らを自身だけで担保できないからだ。内田さんの展示はこの自己撞着の円環の外部を手さぐりしていた。

なかばあきらめつつ、それでも応えを探し続ける発信。

seek you...



P.S. 2016/05/09

フランスの思想家モーリス・ブランショはこんなことを書いていた。

「ところで、作品――芸術作品、文学作品――は完結してもおらず、未完結でもない。作品は、存在している。作品が語るのは、もっぱらそのこと、つまり、それが存在しているということであり、――それ以上の何ごとでもない。〔…〕作品は、何の証拠もなく存在し、また、何の用途もなく存在する。」

僕は内田さんの作品が有用性から逸脱していると書いたけど、その意味について詳しく書くことを忘れてしまっていた。日常的なものからその有用性をひいてしまうと、なにが残るのか。それにブランショはまっすぐと応えている。

「存在する」ということである。

なにを自明な、と思うかもしれない。けれど、僕らのまわりを見渡すとほとんどのものは――PCやノート、スピーカーやディスプレイ、デスクライト、ライターetc...――何かのために、概ね僕のために存在している。それには使いみちがあり、その形はそれに適したもになっている。

僕らはそれが存在していると知っているものの、それが存在しているという実感はもたない。そもそもそれらを見て、その存在へと思考が飛躍することはまずない。けれど作品はそれの存在を明らかにするのだ。

このように存在を明かす作品は、物でありながらそれが物であるということを否定する。

内田さんの作品に使われた素材、つまりそのアクリル板や枠、アクリル絵の具のムラやそれによって生じる影、そのそれぞれを僕らが注意深く見るとき、僕らは他の道具を見ているのとは違った角度から対象を見ていることに気がつく。

そのように見ること、というよりも、そのように見てしまうという受動的な状態こそが彼女の作品のもつ魅力に触れている証拠なのだ。彼女の作品は彼女という作家を離れ、自立したなにか別のものへと移行する。そして、僕らはそれから目を離せなくなる。

 
引用:フロイト著・中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫2011

ブランショ著・栗津則雄、出口裕弘訳『文学空間』現代思想社1962