自分の意見を持てなかったり、上手く伝えられなかったりして落ち込んだり、悩んでいる人はわりと多いように思う。

「自分の意見を持つ」とはどういうことか? 「自分の意見を持つ」とはどういうことか?

「自分の意見を持つ」とはどういうことか?

「自分の意見を持つ」とはどういうことか?


自分の意見を持てなかったり、上手く伝えられなかったりして落ち込んだり、悩んでいる人はわりと多いように思う。

このブログは毒にも薬にもならないことばかり書いているけど、今日は少しだけ「自分の意見の持ち方」のようなことについて書きます。(なのでそれっぽく「ですます」調で書いてみます。そしていささか長くなってしまいました。)

少し前に僕は高校生に文章の書き方を教える講座のチューターをしてきました。

「教える」と言っても、知り合いの哲学の先生がそんな講座を開くというので、自分の勉強も兼ねてそのお手伝いをしてきたのです。

一応「事前研修」というのがあったのですが、じつに適当で山田ズーニー著『伝わる・揺さぶる!文章を書く』という本を読んできて下さい。というだけの内容でした。なにかを教われる!と意気込んで行った僕は肩透かしをくらった感でした。

僕がほんとうに教わったのは実際の現場だったので、早くその話に行きましょう。

先程の本は確かによくできていて、「機能する文章」をどのようにすれば書けるか?ということが書いてあります。気になる方は一読されると、それから文章が劇的に変化する。ということはありませんが、殊「伝わる」文章とはどのような構造になっているか、とても参考になると思います。

この本を一通り読んで、先生のレクチャーというか、講座の趣旨みたいなものを一時間ほど聞いてぶっつけ本番です。僕が高校生だったのはすでに6年も前のことですから、どう接していいのかもわかりません。どうなってしまうのだろう?と思いつつも、「最悪、なにも起こらない」という先生の言葉を信じてその日を待ちました。


対象となる高校生は夏休み合宿の一環として、二日間に渡った集中講座の形式になっていました。学校側の依頼としては、大学入試のための「小論文対策」という括りのようでしたが先の先生がそのような下らない(失礼)ことをするわけもなく「どのようにして考えるのか?」に焦点が絞られていました。

ところで、「考える」とはどんな行為でしょうか。

僕らは日常的に「考えている」とされているし、「もっと考えなよ」と言われたりもします。けれど、その時になにをしていると言うのでしょうか。まして僕は哲学科なんてところに属しているから、なにかとてつもなく難しいことについて考えていると思われたりします。

確かに哲学における問い、たとえば「存在とは何か?」(という問い自体がすでに問いに曝されている。というのは、「なにか?」という限定枠がそもそも存在を規定してしまっているからだ…)みたいなことを言うと、「難しいね」とか「よくわからない」なんて言われます。

なら「あなたのしたいことはなんですか?」だったらどうでしょう。「スカイダイビング」とか「ゲーム」とか、「バンド」とかいろいろ出てくるはずです。ついで「それはなぜですか?」と言われたらどうでしょう?ここに来ると、なにかに躓いたみたいに答えが難しくなるのと思います。

「楽しいから」とか「やりたいから」「やるといいと言われたから」確かにそれは立派な理由だけど、では「なんで楽しいのですか?」と言われると、だんだん理由が分からなくなってしまう。

「考える」というのは、こんなふうに何重にも問いをかけて追い込んでいくことだと思います。

さしあたり。


僕がチューターをしたときの話に移行しましょう。

文章のテーマは「夏休みにしたいこと(したかったこと)」というものでした。先生からそのテーマを聞いて学生はさっそく箇条書きでメモを始めました。そのときの注意点は5W1Hに添って描写を細かくしていくということです。

つまり「誰と」「いつ」「どんなふうに」「どうやって」「なぜ」を織り込みながら書いていきます。僕が最初に見た人はとにかくディズニーランドに行きたいと書いていました。

その人は「誰」や「いつ」については、簡単に書いていましたが「なぜ」についてはあまり書けていませんでした。なので僕は「なんでディズニーランドに行きたいのですか?」と聞いてみました。すると彼女は困った表情を浮かべました。

日常会話で「なぜディズニーランドに行きたいの?」なんて聞かれることはまずないでしょう。(言われたとしたら、その人はディズニーランドに行きたくないのでそういう言い方をしている場合です。)

それでも彼女はちゃんと「楽しいから」とか「テンションが上がるから」とか答えてくれました。けれど僕も(仮にもチューターだから)「なんで楽しいと思う?」とか「なんでテンションがあがるのかな?」と、矢継ぎ早に聞いてみました。

僕は日常的に普通の人よりも遥かに多く「なんで?」「どうして?」「どういう意味?」などと不躾に聞く人間なので、彼女はさぞ戸惑ったと思います。

しかしだんだんと話すうちに、まるでテニスでボールを打ち合うようにどんどん答えがでくるようになりました。一問一答の感と云いますか、不思議な一体感、息が合うとか、その類の速度感と爽快感のあるものでした。

もちろん彼女の答えが説得的だったり普遍的であったりはしません。なにせ問いを投げかける僕がその場の思いつきで聞いているわけですから、そんなにしっかりした答えが出るわけもないのです。それを20分ほど繰り返しているうちに、彼女のディズニー観はだいぶ明らかになってきました。

なにより嬉しかったのは彼女が「考えること」を楽しんでいる様子だったことでした。

この時の「楽しそうな感じ」というのは本当に印象的です。考えるというのはスポーツと同じで楽しいのだということを僕は彼女から改めて示されたように思います。

考えるのは大変だとか、難しいとかいう人は大抵、考えているのではなく悩んでいたり、戸惑っていることが多いのではないでしょうか。

まるで地中に埋まった化石でも発掘するように注意深く、あるいは大胆に、ときに繊細にあらゆる角度からそれを取り出せないかと工夫すること。そのようにして丹念に練り上げられた思考は、その人をより深い場所へ誘い込み、今までに見たこともないものを見せてくれる。

思考には発見の喜びがあるのです。

彼女が充分に問いに魅了されているのを確認して、「あとは自分でやってみて」と言って僕は別の人のところに行きました。


その日のレクチャー(?)が終って、僕は彼女の最後の発表を聞いてびっくりしました。

「私はディズニーランドに行きたいです。なぜかというと…たとえば…」と具体的なシーンを説明しながら、しかも複数の理由を挙げながら説明してくれたからです。

もはや、なにが起きたのか?と戸惑うほど、彼女は理路整然と自分の価値観を表明していました。

確かに一つ一つの理由は個人的な体験に基いていて、客観的な妥当性なんて皆無だし、もちろん大学入試の論文にそのまま使えるようなものではありません。

しかしそれがどれほど主観的であろうと、複数の視点から多角的かつ、時に客観的な情報を交え、なにより「行きたいのだ!」という強い意志に貫かれた発言は否応なく説得力――この説得力というのは物事の正確さではなく、人を巻き込もうとする引力のことです――を持っていました。

「意見を言う」とはこういうことだと身をもって体験しました。

誇張抜きで雷にでも打たれた気がします。

しかしこの説得力(引力)を彼女は最初から持っていたのではありません。うっすらとした「好き」に対して「なぜ」「いつ」「誰と」「どうやって」を何度も何度も問いながら、自分にぴったりの言葉を探し出したのです。

一つ一つの理由や体験は、ありきたりかもしれないけれど、それが束になるとその人の欲望の輪郭線がうっすらと姿を現します。ここには主義や主張、思想さえ見え隠れしています。

例えば彼女は家族とコミュニケーションを取ることは良いことだと考えていたし、家族の楽しみは自分の楽しみであると言外に語っていました。これを逆転させて、「コミュニケーションのための場としてのディズニーランド」みたいなテーマにすれば論文になるでしょう。

つまり自分の意見を持つことは、決して難しいものではないと思うのです。

ただその仕方(ただ問いをかけていくだけなのだけど)が分かっていないのであり、その答えに自信がないだけではないでしょうか。こんなの理由になるのかな?と思ってしまうのは当然かもしれません。

けれどそれが「自分にとって」紛れもない理由であるように思われる限りで、(唯一この「思われ」には誠実である必要があります)そこをクロースアップしていけば自分の輪郭線のようなものがぼんやりと見えてくるのではないでしょうか。

この輪郭線は問いを重ねる度に千変万化するでしょう。けれど、そこで重要なのはその変化についていくことであり、大変でもそれを言葉に置き直して、人に話してみることだと思います。

理由は絶えず揺れ動くし、時と場合によって必ず変化します。ただその変化に忠実であればそれで充分ではないでしょうか。揺るぎない意見、主義主張よりも、真摯で実直に積み重ねられた言葉の方が遥かに人を魅惑すると思うのは僕だけでしょうか。

自分の意見をもつということは、何度も何度も問いを重ねて、その理由を揺さぶって時に完全に破壊してしまって、また作りなおすという作業だと思います。そしてそれは見たくもないものをもたらすでしょう。

そしてたぶん、(結論めいたことを言えば)残念ながら、自分の意見や、そもそも自分の存在に理由はないのでしょう。

しかしその「無さ」を追いかけることはできます。「どうやら理由はないらしい」そう気がついたところが出発点になります。追いかけたその軌跡を人に伝えることも、先人の言葉に耳を傾けることもできるからです。

自分の意見を持つというのは、自分ひとりで完結するようなものではなく、コミュニケーションなのです。たとえ一人で暗く深い言葉の海に分け入ると感じても、その言葉は必ず誰かとつながっているからです。

コミュニケーションとは自分の「なにか」を手放したり、誰かから受け取ったりするようなものではありません。その相手と、その間だけ作り出される捉えがたい体験なのです。

ですから意見の根拠がどれほど揺らいでも、自信がなくともそれでよいのではないでしょうか。なぜならそれはその人に由来するものではないからです。たった一葉の言葉でさえ自分のものではないのですから。

自分の意見をもつとは、どうやら自分の言葉は間違いだらけで、そもそも伝わらないらしいから、ゆえにせめてその揺れ動きに慄くのではなく、向き合い、問い続け、さしあたり言葉にし続けることなのではないでしょうか。