ワニさんとビーバーさんが退院してしまった。
彼女たちは別れ際に「また会おうね」と言ってくれたけれど、僕はその言葉の真偽を測りかねている。「また会おうね」は、もう会わないと思う人にも言うし、言われるから。
また会えるか分からないけれど、会いたい人に振り絞るように「またね」と言うこともある。僕が初めて君に会って、別れの時に言った「またね」はそういうたぐいの言葉だったはずだ。「また会いたい」なんてとても言えなくて、でも言いたくて、やっと言う「またね」
彼女たちとはまた会いたいというよりも、その言葉が正しかったことを確かめたい。平然と嘘をつかれたのか、それとも本当に会いたいと思ってくれたのか。
もし後者であったとき、初めて、また改めて別の関係が始まるだろう。そして僕はそれを心から望んでいる。
彼女たちの退院は確かに悲しかった。けれど、少し安心もしたんだ。彼女たちとのお喋りはいつも刺激的だったからね。その内容は退院したらまた書こうと思う。僕がお喋りと呼ぶのは、一見なんの内容もないもののなかに意味を見出す作業だ。
会話とも、対談ともちがう「お喋り」
そこで手渡されるデータはまったく無意味で無価値なものであるにも関わらず、その瞬間だけに価値をもつ言葉。話し始めた途端から意味を失効してしまうもの。それは語りのように、主体が能動的に発するものではないし、アドバイスや意見なんてものでは絶対にない、“相手がいる”という理由からのみ発せられる言葉なんだ。その意味で「応答」と言えるね。
不真面目で、無責任な戯れとしての会話。それがお喋り。
それは存在と時間をのみ射程におさめている。もちろんこのお喋りが失敗することもよくある。意味を過大にもっていたり、未来を志向していたり、相手をコントロールしようとしたり、動きを含んでいることがあるから。
逆になんの意味内容もない発話というのは、ほとんどありえない。けれどお喋りはその持続によって、意味を失墜させる。延々とテニスのラリーでもするように、打っては返すの反復によって意味が徐々に形骸化するのだ。
お喋りの最後に「なんでこんな話になったんだっけ?」「よく覚えてない」なんていう会話がなされるのは、お喋りがしっかりと機能している証拠だろう。
そこに論理的な先後関係はなく、ただ類似と飛躍と連想があるんだ。
僕もこの文章をお喋りのように書いている。君にむけてのみ書いているからだ。この文章がひとりごとにならないことを祈っているよ。文字というのは、痕跡を残してしまうからね。いかようにも解釈されてしまうし、流れ去っていかない。留まってしまうから、ほんとうのことは書いた途端に訂正していかないといけない。
古代ギリシアの哲学者が対話によって哲学を成立させようとした理由もこの辺りにある。相手を見据えて発せられた言葉のみがほんとうの意味を持つんだ。
だから僕はお喋りが大好き。相手の語彙と文脈、それから間合いや呼吸を見ながらラリーをするのはほんとうに楽しい。この文章もできるだけ僕の息遣いと間合いを入れ込んでいる。
「またね」と言ってくれた人が見てくれて、そこでまた僕と再会してくれるような文章が書きたい。好きなときに、好きなタイミングで僕に会ってくれる人がいるというのは幸せなことだからね。
この文章は実際、ブログという形をとっているから複数人の人と共有されている。けれどやっぱり、君だけに書いているんだ。なぜなら、この文章を読んでくれているのは君だけだからね。
なんの話かいつの間にか分からなくなってしまった。
じゃ、またね。
確かめればいいじゃん!
返信削除壁に絵が描いてあるように読みました
返信削除ブログってもともとそういうものですけれど
正常でありたいと思わなければどんなに楽でしょう
返信削除Anyoneさん、いつもありがとう!そうだね!退院したら確かめてみるよ!
もみじさん、はじめまして!
返信削除コメントありがとうございますm(_ _)m
壁画ですか??どんなところがそうなのでしょう…?
街を歩いていて
返信削除ふと壁に描いてあって目に留まる絵のように
のこそうとされた作品みたいでした
もみじさん
返信削除お返事ありがとうございます!!
すごく嬉しいです。
たぶん今の僕がしたいのって「僕はここにいる」って言うことと、それを介してこんな風にコミュニケーションをとることなので、二つの意味で嬉しいです!ありがとうございます。