脆弱性(前) 僕は両親に挟まれるように座りながら、医師が曖昧に退院を告げるのを聞いていた。

パンドラの匣―6―(前) パンドラの匣―6―(前)

パンドラの匣―6―(前)

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脆弱性(前)

僕は両親に挟まれるように座りながら、医師が曖昧に退院を告げるのを聞いていた。



君も含めて何人かの友人に今の状態を話すと、返答はいつも「早く出た方がいい」だった。確かに僕にこの病棟は合っていなかった。たぶん、僕が健康すぎたのだろう。



もしくは僕はこういうシステムと闘うために自分自身を作りこんできたからかもしれない。僕の生涯の敵はたぶん「問題」そのものであって、それに付随する人格などではないからだ。僕が心から憎むのは愚鈍な人たちではなく、愚鈍さそのものだからだ。

この病棟には妥協と、怠慢と縦割りの無責任な顔のないシステムがまるで、腐った死体にわくウジ虫のように蠢いていた。僕にはそれが我慢ならなかった。

その思い出は幼稚園のころの無意味なルールに対する反感にまで遡る。なぜか部屋で工作をしてはいけない時間があって、僕は外へ連れ出されたのを今でも怒りとともに覚えている。

たぶん、ある人物がこの感受性を有していて、かつ外交的であれば暴走族やヤクザのような形を取るのだろう。対して、僕のように内向的だと陰に篭って一人で自分のお城を作り上げようとするのだと思う。

だからこの病院から出られると決まったのはとても嬉しかったよ。とはいえ、この一ヶ月半をまるで失ったかのようにも感じた。少なくとも睡眠障害は解消されていないし、自律神経はいまだ失調し、不安は僕を毎日のように自殺するようにそそのかす。

逆に得たものもあった。それについて医師にはほとんど語らなかった。むしろここで僕がうわ言のように君に語ってきたようなことを僕は得た。僕はこうして君に文章を書くことを、何よりも愛していることを告白しなければいけないし、それをもう少し別の形で収斂しようと思っている。

哲学に関しても今回の入院で「研究」とは違う活用法を、つまり哲学書に自分の血液を流し込むようにして読む方法を覚えた。

対人関係はレヴィナスやハイデガー、そしてアウグスティヌスを常に念頭においていたし、システムから逃れるときはデリダのやり方を真似た。言葉をオウムのように返して、相手の言っている言葉の意味を自壊させるように仕向けた。

この一ヶ月半は身体が戦闘状態だった。誰にも心を許せず、ときどき面会にくる困り果てた顔をした母親も冷たくあしらった。

だから他の患者さんと別れるということもなんだか遠ざかっていく景色のようで、箱庭でも見ている気分だ。

かえるさんとは入院していらいほとんど毎日のように会って話をしていた。彼女は僕の演技をそのまま信じているようだった。僕が退院が決まったというと、目をうるませて悲しいと訴えてきた。

けれど、僕はそれを見ると心の芯のほうが冷たくなるのを感じた。彼女は僕の影しかみていなかったんだ。僕はいつでも自分を韜晦することで、自分を守っている。

けれど、君のような人に会うとそんなことが馬鹿らしくなってしまってなんでも話してしまう。

逆に、僕の韜晦の姿だけを僕だと思っている人はよくできた人形のように思えてしまうのだ。

昨日、とつぜん別階からすごい怒号と悲鳴が聞こえてきた。あとから話を聞いたところによると、新しく入ってきた患者さんが暴れて、その感情がきりんさんにも感染って、きりんさんも自傷してしまったらしい。そのときの病棟の雰囲気といったら、なんとも言えないものだったよ。

僕と同じ階のフラミンゴさん(彼女とはここ一週間くらいでとても良好な関係を築いている)もかえるさんも過呼吸気味になって明らかに狼狽えていた。かえるさんには部屋にあったお菓子をほとんどあげて落ち着いてもらった。

フラミンゴさんはその時の話を吐き出すように喋ってくれたから聞いていたら、次第に落ち着きを取り戻したようだった。

311の時のような感じがした。
場の空気が粘つき、重く身体に絡んでくるような、そして人を不安にさせた。それと同時にこの階における僕の立場も理解しつつあった。もし彼女たちを苦しめようとすれば、僕は何人かに嫌な噂を信じこませて、お互いに疑心暗鬼にさせられる立場にあるようだった。

これはとても嫌な感じだよ。

この一ヶ月半にわたり、僕は人の脆さを否応なく見せつけられた。それは自分の脆さでもあり、他の患者さんたちの脆さでもあり、最後には看護師さんや医師さえも飲み込んでしまうような人間のシステムへの脆弱さだった。

この脆弱さとは、人間は簡単に操作されてしまうし、ほとんどそれに気がつかないという事実だ。それに僕が気がついたのは小学生のときに手品を始めた時だったと思う。

手品は一般に思われているように「手さばき」で何かを隠すことはほとんどしない。むしろを相手のイニシアチブを完全に支配下において、その陰でいろいろな操作をするのだ。あるときには言語によって、あるときは演技によって。どちらも、うまく決まれば相手の認知のフレーミングを完璧にコントロールできる。

たとえば占い師が使うマインドリーディングなんかはコールドリードとホットリードという二重のリーディングからなっているのだけど、つまり前者は技術的、物理的に相手の情報を引き出し、もう一つはその反応をみて誘導して引き出すのだけど、どちらも本人が情報を「抜かれた」と感じることはない。

手品はそういう心理操作の技術を「合法的」に使うエンターテイメントだけど、それをある別の方向に洗練させればジュリアン・ブランクのようにレイプのための技術にも転用できると思う。

特に精神を病んでいる人というのはその手の暗示に対する抵抗力が下がっている。

まだもう少し嫌な話が続きそうだから、また今度にしよう
  1. 続きが気になる!早く!

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  2. こめんとありがとう!そんな続き大したことないよ…
    でもいま更新しました。

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