孤独ってなんなんですかね。

孤独を感じる? 孤独を感じる?

孤独を感じる?

孤独を感じる?



孤独ってなんなんですかね。

このブログは思いつくままに書いているので、あとから自分で読んで楽しんでるんですけど、今日は孤独について少しまとめたくなったので書いてみます。

一般的に思われているのとは違って、孤独とは認識の問題ではないと思うのです。

ある状況がすべて自己の認識の問題であるという考え方、(ありていに言えば「心の持ちよう」という考え方)の古くは古代ギリシャのストア派にまでさかのぼると思います。彼らが追求したのはアパテイアと呼ばれる、一切の外界に左右されない不動の心でした。

次にこの考え方はキリスト教へと流れこみ、カソリックの禁欲主義となります。欲に流される生活をしてはならず、質素に暮らそうという考え方ですね。この禁欲主義がプロテスタティズムに取り入れられることで、資本主義が発達したとマックス・ウェーバーという人が言っていました。というのは「禁欲的な労働」で得た儲けは、当然の報酬であり賎しいものではないという考えられるからです。

その礎をなした思想家がジョン・ロックという人で、ピューリタンの生まれです。彼は人権や所有権、そして労働価値説(労働に価値があるという考え方)を確立し、これら近代社会の基礎になります。

現代は人権や所有権を肯定する社会ですね。
資本主義とはこの権利の上に成り立っているので、現代の資本主義はこれらの権利を守ろうとします。

しかし全てがこのローラー車のようなもので均されてしまうと問題も生じます。
それが行き過ぎた自己責任論です。簡単にいえば「あなたのことはあなたの責任です」という考え方。

ここでやっと最初の話題と交差します。
心の平静への道が労働価値説と結びつき、いつのまにか自己責任という考え方と混ざっていたのです。

その最もわかりやすい例がアメリカや日本の格差社会でしょう。労働ができないのは、あなたの責任なので生存権の底辺で生きて下さいという考え方です。

でも考えてみれば、労働に対する不利は生物的、地理的、経済的な「生まれ」によって決められていることがあります。自由意志ではどうしようもない構造的な要因が少なくないのです。

しかし労働価値を判断基準にする社会(資本主義)にとって、個人が自由意志で活動していると考える方が都合がよいのです。そうですよね。この社会にあって労働しない人間は不要だし、その責任は個人にあったほうがいいですから。

この考え方は孤独にも適用されています。それは個人の認知の問題だという考え方です。

もともとストア派は賢人が不動の心を養うために、あえて外界からの影響を受けないように自己の認識を肥大化させたのに、それがいつのまにか美徳となり、今では社会を下支えする基本的な考え方になってしまいました。

ここで見落とされているのは、自分ではなく世界観のほうが誤っているかもしれないと考えることです。
孤独とは認知ではなく、そもそもの構造であると考えてみることです。

なぜか。世界にあなたはたった一人しかいないからです。
あなたの感覚や感情は誰にも理解できないし、あなたもまたそうだから。
あなたは唯一の存在だから。

しかし現代社会はそれを嫌います。
なぜなら労働力の量として人を量りたいからで、そこに質的な差を持ち込みたくないのです。しかし根本的にあなたと誰かは異なっている。存在のあり方として違うのです。

あなたと誰かを比べることは不可能です。あなたの身長は、あなたが見ている視界です。
それは数字ではないし、まして誰かと同じ景色を見ることなんてありえないのです。

ゆえに孤独なのです。比較を絶しているという意味で孤独なのです。

この孤独を理解するということは、あなたが挨拶をし、顔をあわせる人々はすべて孤独であり、根本的に異質であり、誰一人として平等ではなく、比べられない「かもしれない」と想像をめぐらせることなのです。

あなたがかけがえがないのは、価値がある/ないの基準を超えて、価値が測れないからです。
だって、そのほうがいいと思いませんか?