初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面で動いていた。神は言われた。 「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。 ...

朝はこないで 朝はこないで

朝はこないで

朝はこないで


初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面で動いていた。神は言われた。
「光あれ。」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
「新共同訳 創世記1.1-1.5」

なんで朝は来るんだ!

そんなことを言えば大人はこんな説明をする。
「地球は宇宙という巨大な空間にある惑星で、太陽の周りを公転している。それに加えて地球は自分自身も自転していて、その周期によって太陽の光が地表にあたるからだ。」

ほとんどの大人は、宇宙の壮大な動きよりも株価の動きを大事に生きているので、これ以上正確な回答は望めない。

だけど、僕の聞きたいことは違う。
なぜ朝は来るのか?というのは、運命についての問い。

なぜ生きているんだろう?という疑問は、生殖との関係性を聞きたいわけじゃないのと同じだ。

けれど、それをわかっていない(ふりをしているの?)人が多くて嫌になる。

ほんとうにやるせない。朝が来れば、学校や仕事が始まる。
それがない日はもっと酷いこと、つまり自分に耐えるという試練が開始される。

朝は開始という観念そのものだ。

「開始」という観念は非常におもしろい。
例えば創世記には神が初めからいることになっている。その神が世界を作るのだ。しかしこの神はいったいどこから来たのだろう?という問題が生じる。

科学において宇宙はビックバンによって生じたことになっているが、その前はいまいちわかっていない。虚数時間という概念で説明しようとする試みもあるようだが、ではその虚数時間の前は?と聞きたくなる。

これはカントという人がはじめて話題にした理性の無限後退という現象である。理性が起源を追い求めていくと、必ず二律背反になってしまうのだ。これが理性の限界である。そこからかの有名な「私たちは何を知りうるのか?」という問いが生じるのだが、今は置こう。

開始以前には、開始ではないものが必要になる。もしそれが開始であれば、その起源が必要になるからである。変な言い方になるが、起源はそれ以上の起源を持ってはいけないのだ。

つまり何かが開始するというのは理性的に測れない、ある狂気、ある非合理なのだ。

いじょうから、目が覚めるのは狂気の沙汰ということになる。
自分の目が覚める瞬間を理性的に観察・理解することはできない。なぜならその観察する意識がまだ起動していないからだ。目醒めとは超越の瞬間、生誕そのものなのだ。

ああ神よ。あと少しのあいだ起こさないで下されば、地球など消滅したでしょうに。