すこし日が高くなり、萩などの木々は露で重そうにしなだれている。その露がおちるたびに枝がゆれ、誰もさわらないのにはね上がるようすに見とれてしまう。とはいえ他の人にとっては、別におもしろくもないのだろうと想像すると、それもまたおかしい。 枕草子(拙訳)

九月ばかり、夜一夜、振り明かしつる雨の、今朝はやみて 九月ばかり、夜一夜、振り明かしつる雨の、今朝はやみて

九月ばかり、夜一夜、振り明かしつる雨の、今朝はやみて

九月ばかり、夜一夜、振り明かしつる雨の、今朝はやみて


すこし日が高くなり、萩などの木々は露で重そうにしなだれている。その露がおちるたびに枝がゆれ、誰もさわらないのにはね上がるようすに見とれてしまう。とはいえ他の人にとっては、別におもしろくもないのだろうと想像すると、それもまたおかしい。
枕草子(拙訳)

枕草子は1001年に成立したとされているので、やく千年前の言葉ですね。千年というスパンは私たちが辛うじてリアリティーを感じる数字のように思います。やく20万年ほど前にホモ・サピエンスは誕生したらしいのですが、それくらいの年月になるとそれが《どれくらい》前なのかぱっと理解できません。

それにしても、はるか昔というのは不思議な手ざわりがします。

たとえば、夜空の星の光は何万年も《昔》にあの星が発した光です。しかしそれは《今》、私たちの目に届いているわけですから、いったい私たちの見ている星はいつの星なのでしょう。

時間が過ぎゆくとは白昼夢のような、フィクションにさえ思われてきます。

枕草子は過去に書かれた文章ですが、私にとってその時間の隔たりは極めて希薄です。

すぐそのあたりに清少納言がいて、「今日はね、こんなんだったんだ。」と話しかけてくれる。私が相槌を打つと「他にもね、」と宮中のことを時に自慢気に、時に哀しそうに語ってくれるのです。

学術的研究書にはいろいろな噂が飛び交っていて、興味がつきません。

彼女が愛してやまなかった皇宮の定子さまについても、その亡きあとに書いた部分が少なくないとか、きらびやかに描かれている宮中もそのじつ、政治争いに巻き込まれていたとか。

そんな話をきくと、引用した一節も虚構ではないかと訝しくなります。

雨の夜が明けた朝、庭の木々には露が輝き、蜘蛛の巣はまるで真珠を飾ったようにきらめいています。(この時代の蜘蛛は愛する人を待っている「待ち人」に喩えられていました。)そこに萩の木がふと現れるのですが、時は九月ですからまさに季節の花。

その萩が重そうにしなだれていて、水が滴る度に枝が跳ね上がる。なんでもないことのようですが、清少納言にはそれがおもしろいのです。けれどすぐさま「ああきっと、この面白さを分からない人もいるのだろう」と少し考え、それもまた悪くないと夢想する。

うつくしく、いささか滑稽な情景が目に浮かぶようですが、やや「できすぎ」ですね。

最後の「をかし」は他人と自分の感性が違うことの不思議を、愉しんでのものでしょう。

そう考えるなら「春はあけぼの。夏は夜。」と、ものごとを断定的に冷たく怜悧に語った清少納言ですが、ここでは反対に「私はおかしなものに気をひかれているな」という、すこし苦笑いを浮かべたやわらかな彼女を感じます。

しかしはじめから考えてみれば、この誰かは現実にはいない、清少納言の虚構の人物ですし、えがかれた景色も作りものじみています。

けれど、だからこそ時を超えられたのかもしれません。