人が怖くてしかたない。

人がこわい 人がこわい

人がこわい

人がこわい


人が怖くてしかたない。

むかしにひどく傷つけられたとか、いじめられたとか、そういう理由ではない。
(当然のように、人に傷つけられたし、学校ではいじめらたが)

自分がどう思われているのか考えると、死にたくなるのだ。

一時『嫌われる勇気』などという本が注目を集めたが、つまらない本だった。
問題は承認欲求という表面的なレベルではなく、自分と他人が一般的に考えられているほど明瞭な区分けではないということだから。

ここにはふたつの相反する価値観が入り交じっている。

自分とその「自分のなかの他人」である。
この構図は一見するとわかりやすい。他人は自分の想像の産物でしかないと考えられるからだ。

だがもし、きみがこの単純な想定を理解できるなら、この想定はすでに崩壊している。
なぜなら自分と他人が根本的に違う存在であったら、この想定も理解できないはずだから。

たとえばきみは誰かの「痛い」という言葉も、「死にたい」という言葉でさえ、おおむね理解してしまうだろう。
きみがその時にしているのは、誰かの痛みに自分の痛みを代入して理解するということだ。

誰かの痛みは「自分の痛み」でしかありえず、あらゆる「痛み」は自分しか味わうことができない。つまり「痛み」という感覚のユニットは一つであり、他人の痛みにもそのユニットを当てはめざるをえない。この意味であらゆる感覚(言語はいうまでもない)は他人と共有していることになる。

あらゆる感覚の塊が自分を構成しているとすれば、結論は明白だ。

と、ここまで書いていて、嫌になってきた。
こんなことは誰かがすでに書いているし、僕が書く意味なんてない。

そのとおりだ。僕は他人によって形成された他人の塊。みんなの価値観の寄せ集め。
僕なんてものは存在しない。

だが、もしそうだとすれば…

  1. 人が怖いということは、つまるところ自分が怖いのかな・・・。

    返信削除
    返信
    1. 初コメントです。ありがとうございます!

      つまるところ、他人は自分のなかの他人なので、そうなりますね。
      でも、ぜんぜんしっくりこないですね。(またこんど、考えてみます!)

      きの

      削除