孤独で友人の少ない人生をおくってきた。

孤独と寂しさ 孤独と寂しさ

孤独と寂しさ

孤独と寂しさ


孤独で友人の少ない人生をおくってきた。

それは学校で話す人がいなかったというタイプの孤独ではなくて、
内心般若のごとく燃えがる怒りを鎮めていたり、つくり笑いとポーズの連続、教師の顔色をうかがうというタイプのもの。

とにかくも人がこわかった。
人を怖がる人には二つのタイプがあって、ひきこもってしまう物静かなタイプと、キャラクターを演じることで本当の内面を守ろうとするタイプ。

ぼくは後者だったから、かなりうるさかったと思う。
もちろんそんなふうに、人の顔色を伺い、お追従するのは嘘をついているようで辛かった。人前でいい顔をして、あとから人生を無駄遣いしたと、どれほど後悔したことか。

あるとき、「ほんとうの自分」と「空笑いの自分」はどちらも自分じゃん!
演技と内実はほんとうのところ区別できないじゃん!ということに悟るように気がついて、身体が軽くなった。
「ほんとうの自分」なんてものを考えるから、そのギャップで自己嫌悪しちゃうのであって、ここにいる自分を唯一の自分だと思えばよかったんだって。

死ぬほどつまらない話でも首肯していると楽しく思えるし、それどころか、むしろ人と話していないと落ち着かなくなった。「ぼくはここにいる」と確認するために人と話し、情報を伝えたりするのではなく、「話すために話す」ようになっていた。

思い出すのは中学の休み時間。
食事が終わると活発な女子はすぐに外へ飛び出し、飽きもせず円になってバレーボールを打ち合っていた。
ベランダから眺めていたので、なにを言ってるのかまではわからなかったけど、なにかを大きな声で叫びながら走り回っていた。

ある日のこと、ぼくが片想いしていた女の子が飛び入り参加して、彼女は活発なほうではなかったけど、陽気な性格だったので身体が動かしたくなっただろう。動機はどうあれ、彼女がその輪に入ってもほとんどボールが回ってこなかった。
あの光景は今でも忘れられない。

あとから考えると、あれはチンパンジーのグルーミングのようなものだったのだと思う。

たとえば彼女らのボールはほぼ全員にまわっていて、全員にまわすためには、自分はさっき打ったから次は隣の人に打たせてあげようとか、○○ちゃんのところへボールが行っていないから回してあげようといった配慮がいる。

その横で少年たちがサッカーに興じていたのはとても対照的で、このような勝負事においては勝てばよいのだから、全員への配慮はいらない。

人間関係を《内容》と《形式》のどちらに重きを置くかで分けるなら、サッカーは勝利や有用性という内容型であり、グルーミングはその形式(行為)そのものに意味があるので形式型だ。

後者において、コミュニケーションの内実(話す内容)に重きは置かれず、話すこと(形式)に重きが置かれる。これは一見するとおしゃべりやボールを打ち上げる「ため」の集団という「形」をとってはいるが、ほんとうは時間を共有し、存在を承認しあうということが重要視される。
ゆえに、いつもグループに入っていなかった女の子は輪に入れなかったのだろう。

男の子がゲームを真剣にするとしたら、彼女たちはバレーという演技をしていたのだ。
こういう熾烈な演技的行為を通じて子供は女子へと変容するのだろう。少なくとも女性が全員、生まれつきお喋り好きでコミュニケーションに秀でているのではなく、過酷な通過儀礼を通してそのようになるのだと思う。

ぼくにもそのような場が必要だった。そのために大学という場所は悪くなく、とにかく多くの人と何時間も話していた。話しかける時は冷や汗と共に始まり、常に興奮し、躁でも患っているのかと周囲からは思われていたかもしれない。千本ノックのように言葉を必死で継ぎ足しては、時間を浪費していた。(同級生の人たち、ごめんなさい。)

そうしているうちに、徐々に向こうからも話してくれるようになったり、自然と話せるようになってきた。ある優しい友人からは八方美人すぎると言われたが、それが誇らしかった。たぶん、ぼくは相当に不自然なコミュニケーションをとっていたのだろう。

けれど、弊害も酷かった。それはもともとあった他人への恐怖が、よじれて肥大化し、他人の顔色をより伺うようになり、自分がなくなる感じがしていたのだ。
今でも常に誰かの思考がこびりついているのを感じ、誰かの視線を内包している。こうして書いているときも、友人や先輩、教師のことが頭から離れない。頭のなかが騒がしく、苛立つ。

それが反転することがある。
模倣が模倣でなくなる瞬間、演技が演技でなくなる瞬間。自我がもっとも軽やかに振る舞う瞬間。

こうして文章を書くのも常に誰かの文体、単語の用法、世界観を借りているけど、この並び順は紛れもなくぼくのものだし、ぼくが誰かの口真似をしたとて、その声量、声質、リズムはぼくのもの。

オリジナリティという運命だと言ってもいい。この反転によって、ぼくの孤独は世界に自分は一人だという「存在としての孤独」へ転じ、寂しさという飢えを感じるようになる。

驚くべきことに、それまで寂しさを感じたことはなく、凍りつくような孤独ではあったけれど、人への欲望はなかった。
しかし今では人に飢えている。小さいころの孤独のほうがよかったように思うことさえある。

孤独は既知の世界の内奥を深めるが、寂しさは見知らぬ世界へと誘う。

孤独と寂しさの絶え間ざる反転は、精神を摩耗する。しかし、寂しさを知るとはこの摩耗の経験なのかもしれない。