大丈夫、世界は繋がるように動いているんだ。
もう一回、もう一回、ちゃんと笑って会えるように。
たむらぱんさんの、「ココ」という曲。
ときどき思う、気持ちが晴れる。
いつだってココが全てなんだ。
雨だって綺麗に降ってるし、リズムだってちゃんともっているし、風のように踊れるから。
もうこれ以上、前に進めないと思う時に聞く。
「京騒戯画」というアニメのOPテーマだったのだけど、本編の方は途中で飽きてしまってどうなったかは知らない。けれどこの曲だけは心のなかに残っていて、幾度となく僕に力をくれている。
どれくらいの人が毎日、自殺願望に苛まれているのかは知らないけれど、僕のように来る日も来る日も死にたいと思っている人間にはこんな曲が必要だ。
ほとんど音楽によって命を繋いできたと言っても過言ではない。
もちろん文章に助けられたことも多いのだが、ほんとうに鬱になると文字は読めなくなる。そんな時にはマルクス・アウレリウスもバタイユも太宰も助けてはくれない。
世界が真っ暗に見えて、もう自分が誰なのかも、どこにいてどこへ進めばいいのか、自分の人生が全て無意味に感じられ、ひたすらに悲しみしか残っていない、この苦痛が今すぐにでも終わるなら死にたいと思う瞬間。
この時に悔しさがあればまだ立ち上がれる。けれど、感情の黒い魚がぱくっと自分を飲み込んでしまったように、理性はすでに敗北を決め込み、身体は大地に縛り付けられたように動かない。
そんななか、「いつだって、ココがすべてなんだ」という歌詞に助けられる。
絶望や自殺願望にすっかり飲み込まれて、ほとんど発狂を抱えているとき、腰を据えてその沼のなかに身を浸すといくつかのことに気がつく。
まずこの欲望は、時間軸をもっているということだ。
過去の苦痛を反復し、未来の苦痛を予期している。例えば自殺したいと考える人の脳に電撃を流して、過去の記憶を全て消してしまったとしたら、それでもその人は死を考えるだろうか?
もう一回、もう一回、ちゃんと笑って会えるように。
たむらぱんさんの、「ココ」という曲。
ときどき思う、気持ちが晴れる。
いつだってココが全てなんだ。
雨だって綺麗に降ってるし、リズムだってちゃんともっているし、風のように踊れるから。
もうこれ以上、前に進めないと思う時に聞く。
「京騒戯画」というアニメのOPテーマだったのだけど、本編の方は途中で飽きてしまってどうなったかは知らない。けれどこの曲だけは心のなかに残っていて、幾度となく僕に力をくれている。
どれくらいの人が毎日、自殺願望に苛まれているのかは知らないけれど、僕のように来る日も来る日も死にたいと思っている人間にはこんな曲が必要だ。
ほとんど音楽によって命を繋いできたと言っても過言ではない。
もちろん文章に助けられたことも多いのだが、ほんとうに鬱になると文字は読めなくなる。そんな時にはマルクス・アウレリウスもバタイユも太宰も助けてはくれない。
世界が真っ暗に見えて、もう自分が誰なのかも、どこにいてどこへ進めばいいのか、自分の人生が全て無意味に感じられ、ひたすらに悲しみしか残っていない、この苦痛が今すぐにでも終わるなら死にたいと思う瞬間。
この時に悔しさがあればまだ立ち上がれる。けれど、感情の黒い魚がぱくっと自分を飲み込んでしまったように、理性はすでに敗北を決め込み、身体は大地に縛り付けられたように動かない。
そんななか、「いつだって、ココがすべてなんだ」という歌詞に助けられる。
絶望や自殺願望にすっかり飲み込まれて、ほとんど発狂を抱えているとき、腰を据えてその沼のなかに身を浸すといくつかのことに気がつく。
まずこの欲望は、時間軸をもっているということだ。
過去の苦痛を反復し、未来の苦痛を予期している。例えば自殺したいと考える人の脳に電撃を流して、過去の記憶を全て消してしまったとしたら、それでもその人は死を考えるだろうか?
逆に神のようなものが唐突に現れて、どう足掻いても明日死ぬと宣告されてなお今、自殺しようとするだろうか?
絶望や自殺願望はまずもって時間の推移を前提としている。特にそれは未来を志向している。
芥川龍之介は自殺前に「茫漠とした不安」を感じていたらしいが、これは彼の欲望が未来を向いていたということだろう。
死のうと思うとき、先のこと考えない人は少ないのではないか。そこには「明日はもっと悪くなる」とか、「このまま進むくらいなら死んだほうがマシ」といった思いがあるのではないか。
先程から僕が「欲望」という言葉を使っているのもそのためだ。「絶望」という、望みが絶たれるということは生きている以上、残念ながらありえない。
むしろ人は絶えず、充足していると言っても良い。
レヴィナスという人が享受(jouissance)という言葉でそれを表している。享受というのは、たとえば風の音だとか、美味しいスープだとかいったものを、生存のためにではなく受け取っているという人間の在り方だ。
つまり人間が外界を受け取るとき、つねに私の側が否応なくそれを楽しんでいるということだ。目的とその達成という単純な連関に留まらない部分が存在しているのだ。
バタイユという人が「エロティシズムは人間にしか観察されない」といったのもこれに近いと思う。動物は生殖、ひいては種の繁栄のために性交を行うが、人間は快楽のためにそれを行い、そこから文化的なものさえ築きあげてきた。
僕たちは、目的に隷属しつつも絶えずそこから逃れているのだ。それが生なのではないか。
(だからバタイユは「エロティシズムとは死する時まで生を称えることだ」と書いている。)
僕らはどうしようもなく目的に隷属できない性質を備えているのだ。味覚も嗅覚も、触覚もただの数値的なデータを吐き出すセンサではない。そこには快や不快がつきまとい、不安や期待がべったりとはりついている。
僕らは「なにかのため」に存在しているのではない。
もし言うなら、僕らはただ自身のために存在している。そこには定規は存在しない。もしあったとしても自分の背の丈を自分の背の丈で測るくらい無意味だ。
僕らが僕らのために存在するとき、完全な個体として僕らが自身を享受する場所がココなのではないか。
だとすれば自殺が僕らを誘おうとする場所は、目的の世界ということにならないだろうか。つまり人間を目的をもった「物」として、完成か否かという尺度によって測り、失敗と成功を当てはめる思考の産物なのではないだろうか?
自分を自分で測る以上、なんの答えもでないはずなのに、なぜか答えがでている状態が自殺願望の瞬間であり、それは自身を対象化し、物体化している結果ではないだろうか。
しかし僕らはなんの尺度ももっていない。
ココが全てなのだ。
もちろんココから一切の希望も夢も描くことはできない。けれど絶望もまた描けない。ココにあるということ、この不条理さがただ広がっているのだ。
けれど、ここをスタート地点にすることはできるかもしれない。空想と野心でニヒリズムを塗りたぐって、破壊して、無根拠なうえに自身を築き上げることはできるかもしれない。
大丈夫、世界は無意味だ。
P.S どうして僕の文章はいつもこんな硬くなってしまうのだろう。