君はなにを信じて生きているのか?国家?宗教?それとも君自身なのかな?

なにを信じて生きるのか なにを信じて生きるのか

なにを信じて生きるのか

なにを信じて生きるのか


君はなにを信じて生きているのか?国家?宗教?それとも君自身なのかな?

なんで突然、こんなことを聞いたかというと少し前の出来事に遡る。僕が大学に入学したてのころ、あるゼミで懇親会が開かれたんだ。

先生がスパゲッティ屋さんに連れて行ってくれて、好きなものを好きなだけ食べていいよ。と言ってくれた。

僕はきのこスパゲッティの大盛りを頼んで、あまりみんなの話には加わらず、先生が面白いことを言いそうな気配を発すると質問するだけにして、あとはひたすらパスタを啜っていた。

だからどんな流れだったかは分からないのだけど、院にまで進学しまうとどうしても同年代と比較してしまうという話が俎上に登った。社会的に自立してないし、家庭を持っていてもおかしくない年齢だというわけだ。

ある女性が「私くらいの年齢になると周りからも結婚しないのか?と言われるし、私は結婚なんてするつもりないし、鬱陶しい」というようなことを言っていたと思う。

それを社会人入試をしてきた、50に手が届くくらいの男性に先生が話を振った。すると彼は「もう私くらいの年齢になると周りのことは気になりません。人それぞれだと思います。」と答えたのだ。

僕はスパゲッティを啜るのをやめて、口を出そうと思ったのだが、ジンジャエールを飲んでいた先生の方が一歩早かった。

「君はなにを信じているんだね?」

はっきりと目を見つめて先生は彼に問うた。哲学者というのは、ここぞという時の「問い」において右に出る職業はほとんどないだろう。

その問への答え如何で、あらゆることが判明してしまうような問いを、かならずクリティカルな問いを投げてくる。

彼は答えに窮したように「あまりない。あれもあるしこれもあるし」みたいなことを答えた。少なくとも、はっきりとは答えられなかった。

僕は空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の無数に手の生えたモンスターでも見るような目つきで、同級生を眺めてしまった。なにを言っているんだろう?という純粋な驚きと、不快感だった。

もしほんとうに多種多様な価値観が衝突する場にあって「ひとそれぞれ」と言えてしまうような人間は学問に相応しくない。少なくとも僕にとって、そのような人ほど哲学なんて必要ないじゃないか?と思う。

僕にとって哲学は、自分の主張を過去の先人たちと吟味し、話し合って時に胸を借りて大きなことを言ってみたり、感服しきったりする作業だからだ。

哲学書を読んで、「ん〜彼はこう書いているけど、ひとそれぞれですね。」とかコメントしたら間抜けそのものではないか。なら読むなよ!ってなると思うんだけど…

怨嗟は置いておいて、僕はびっくりしてしまったし、それに対する先生の問いも良かった。少なからず僕と同じような心境になったのだと思う。

僕はすかさず、「先生はなにを信じているのですか?」と聞いてしまった。

先生は少しニヤッと笑ってから「自然の混乱です」とお答えになった。僕がもっと詳しくと言うと、エッセイを書いてあるからこんど持ってくるよということだった。

そのエッセイはこんな内容だった。

主人公の先生がフランスの片田舎のロマネスク様式の教会に行った時の話だ。すでに日は落ちかけていて、開いているのかさえ分からない思いドアを彼は開けて中に入る。

すると舞台のような内陣があり、そこにイエスの彫像がある。それを取り囲むように赤く塗られた内陣周列柱(ロン・ポワン)が二重になって上に伸びている。

彼は列柱にほどこされたぶどうの蔦や幾何学模様が刻まれているのに目が奪われてしまう。

そこから地下聖堂に階段を下ると、かなり暗く、周りを把握するまでに時間がいる。目がなれたころ階段から一人の老年に差し掛かった女性が降りてくる。彼は話しかける。

すると話は信仰についてのもになった。彼女はこの教会内に染み渡っている歴史から立ち上がっているような神の気配を信じていると言うのだ。そしてこれからもこの夕暮れに現れる神の気配を信じていくと。

そして彼女は彼に「ところで、あなたは、なにを信じているのか?」と聞いた。

彼は「自然の気配のようなものを」と答えたが、彼はフランス語の信じる(たぶんcroireだ)という言葉が指す対象の限定枠に戸惑った。

なぜならそれは、対象を高く、神のような超越的なものに引き上げてしまう動詞だからだ。彼にとって信じる対象はもっと身近で、自分の身体にまで染み渡っているものだから。

彼はそこから西洋と東洋の風土の差について書いているだけど、割愛する。

確かに僕にとっても「信じる」という言葉は使い勝手が悪い。たとえば「友人を信じる」なんてメロスのように言ったとて、それはただ自分の思惑を相手に当てはめているからだ。

逆にもっと低いレベルで、「このいま踏みしめている大地」を信じるという言い方もある。僕は大気や空や、風や大地を信じている。でなければ、杞憂の民のように不安で仕方ないだろう。

ならば僕は「なにを信じているのか?」と言われたら、なんて応えればいいのだろう?それともなにも信じていないのだろうか?

けれど、もし僕がなにも信じていないとしたらこんな無為な文章のために時間を割くだろうか。今は一分でも惜しい。けれども、それを押してでも僕は文章を書きたい。

僕は何かを信じていると感じている。

例えば今、死ぬこと。僕はこれをわりと信じている。僕は九分九厘、死ぬ。僕は自分の指を自在に操れるように、自らの死を信じている。ちょうど指先を怪我した時に痛みを覚えるように、苦痛を伴った生は死を思い起こさせる。

僕は死ぬことを信じている。

けれど、もし本当に死だけを信じていたら、僕は前には進めないだろう。少なくとも同時に生も信じないといけない。僕は死ぬかもしれないが、生き抜くかもしれない。

この曖昧な境界線。時と場合によってこの場所はぐらつくのだけど、その下層になにかあるのではないか。

たぶん先生が言った「自然の混乱」とは別の意味で、僕は「世界の不条理」を信じているのだと思う。どれほど努力しても報われずに人は死ぬし、どれほど罪深くても人生に満足して死んでいく。戦争は起こるし、貧困は続く。空はときに美しく、海は時に多くの人の命を奪う。

生誕自体、不条理だ。そこに論理的な先後関係を持ち込むことはできないし、その生の終わりもまたなんの前後関係もないのだろう。

岩自体に「硬さ」という概念が無いように、今の僕の生はなんらかの時間的な前後関係とは切り離されている。

ならその途中経過だって、こんなに喜んだり、苦しんだり、泣いたり、笑ったりしたって、まるでトイレットペーパーがあっけなく無くなってしまうように、カラカラと音を立てて終ってしまうに違いない。

そこに前後関係はない。僕が努力したから今の場所にいるわけではないし、怠慢だったからこうしているわけでもない。全てはなんの因果関係もなく、もしくは全ては運命によって定められているのだ。

運命とはただの因果関係ではない。その次元をひとつ超えて僕に迫ってきて、ときに恩寵を、ときに恐怖を生じさせ、僕を僕自身から疎外する。

運命は僕を僕でなくす。けれどもこれは僕の運命でもあるわけだ。

その上で僕は戦いを始めようと思う。

たとえ運命だろうと、宿命だろうと、人格だろうと遺伝子だろうと、僕を制約するものを破壊しつくしてしまいたい。たとえそれがお釈迦様の手のひらの上だって構わない。

踊っているのでなければ、踊らされているのだろう。

これは神林長平の小説の一節だ。そして僕は踊らされるなら、踊ったほうがいい。踊るとは重力に反して高く舞い上がる反復行動だ。運命も重力も恐怖も孤独もすべて忘れて踊り狂ってしまいたい。

運命に対抗するにはそれを忘却することだ。そんなものはないと笑い飛ばしてしまうことだ。子どもが日がな一日、明日のことさえ考えないで遊び呆けるように、忘我して走り回ること。

いずれ落ちることならとうに知っている。けれど今は高く飛び跳ねよう。

「おお、ツァラトゥストラよ、実際にお前はなんと高く石を投げたことか。――しかし、お前の上に、その石は、再び落下してくるだろう。」

けれどツァラトゥストラはこう応える。

「この門道えお見るがいい!小人よ!」〔…〕「見るがいい、この瞬間を」と、私は言い続けた。「この瞬間という門道から、一つの永い永遠の道が背後の方に走っている。われわれの背後には一つの永遠があるわけだ。」

この道が永遠に循環する永劫回帰の道であろうと、彼は通るのだろう。それがどれほど呪わしい事態であったとしても。凄惨極まる、耐え難い生の道であっても。

永劫回帰がほんとうにあるかどうかは問題ではない。

しかし「世界の不条理を信じる」とはニーチェの語る最悪の状況(永劫回帰)も含んでいる。けれど同時にニーチェの思想には「これが人生か、ならばもう一度」と言う余地は残っている。

この「もう一度」という言葉は、なんの効力も持たない。なぜならもし生が、永劫回帰するならなら、言おうが言うまいが関係ないからだ。やはり不条理だ。

原因があって結果があるのでもないし、意志があって行動があるのでもない。それらはみな等しく、信じたい人々だけが信じている虚構だ。けれどそれを虚構のなかで虚構を享受してしまうこと。それは現実になる。

不条理とは神のサイコロ遊び、たぶん「戯れ」の結果なのだろう。いま僕がこうしているように、未来への生産的行為でもなければ、お金になることでもない、無為な役に立たない行為。

僕は神を真似ているのかもしれない。

震える手でたばこに火でもつけるように、ただ消費するためだけの消費。僕は恐れながら、戸惑いながら、しかしそれでも僕はここに賭けようと思う。

けれど手が震えて掛け金を一つの山にまだできていない。僕はふたつの山にいま賭けをしている。遠からず、この賭けは一つに収斂するのだろう。それが幸福な形であればいいと思うけど、きっと苦痛を伴うのだろうと予感している。

世界は不条理だからだ。

けれどバタイユは言う。

「しかしいったい誰が好運を賭けずして好運を見ることができるというのか。」