仕事帰り、天満宮がある道を通った。

2016/05/17 2016/05/17

2016/05/17

2016/05/17


仕事帰り、天満宮がある道を通った。

それは道の端にあって、一見すると追いやられたようにも感じられるのだが、よくよく近づくと小ぶりながらも祠と大きな神樹がある。

最初は今の場所に引っ越してきてふらふらと辺りを歩いていて出くわしたのだった。地図にも載っていないような小さな祠だったが、僕は引き寄せられるようにそこにたどり着いた。

日本のいたるところに天満宮はあるのだから、格別ふしぎなことでもないのだが、僕はここに祠をみつけて安心した。これで僕の新生活も心強い。

こんなことを書くと僕はさぞ信心深いと思われるのだろうか。

前に友人から「祈るってよくする?」と言われ「毎朝、毎晩」と答えたらまるでカルト信者でも見るような目つきを向けられたのを思い出す。僕は部屋に祀った道真公に起きた時と、寝る前に手を合わせるのだ。

とはいえ僕は道真公を心から信仰しているわけではない。そもそも僕は菅原道真に詳しい訳でもなんでもない。

だいた生まれがいつなのかさえ知らないのだから不謹慎なものだ。そんなものに毎日手を合わせているのだから、カルト信者より質が悪いかもしれない。

なぜ僕が道真公に手を合わせるようになったのかは思い出せない。おおくの学生と同じで受験の時だったかもしれない。けれど僕が受験の合格についてお願いした記憶はない。

僕はよく神社にお参りするが、すべては挨拶だ。心のなかで「こんにちは。お世話になります。」とか「いつもありがとうございます。」とかそんなことを考えている。

そのシマを管轄するヤクザに挨拶でもするのに似ている。(実際にしたことはないけど)

だいたいその時に会話する。(と書くとやはり僕は狂人のように思われるのだろうか。)

「いつもお世話になっています」と僕が言うと「最近、怠けていないか?」とか「今は苦しいかもしれないが我慢しなさい」とか「幸運に感謝しなさい」とかそんな感じの道徳的なことを言われる。

もちろん科学的に考えれば、それは僕の想像にすぎない。しかしその想像にランクを付けるなら、それは想像を超えた権利をもっているのだ。すこしデカルトの心のうちなる無限の神みたいだ。

彼は権利上、僕の神なのだ。

僕は仮に「僕を超えた存在を仮定して」それに形式的に挨拶する、という「カタチ」をとっているのだ。だから、どこからどこまでをとっても、僕のなかに信仰のかけらもない。

全てが形式にすぎないのだが、ゆえにそれが内容になるような行為。

ならばなんの実感もないのか?と問われると僕は、「清少納言が僕の友人であれば、菅原道真は僕のよきアドバイザーだ。」と応える。

二人とも僕はよく知らないのに、まるで旧友でも亡くなったかのように彼らの死が悔やまれる。なぜそんな感情に駆られるのか全くわからないのだけど、とにかくそう思う。ときに僕は彼らに会えない悲しみを覚え、ぬくもりに似た懐かしさを感じる。

前世などというものは信じない(信じる、信じないの範疇にない)し、仮定するつもりもない。むしろそれは言葉の現在性(言葉を読む時はつねに現在である)によって担保されているなにかなのだと思う。

言葉を読むとき、それは現在であり、この現在は過去や未来と関係を持たないような現在だからだ。

今日もそんな感じで、――僕はひどく落ち込んでいた――挨拶をすると「そもそも今の君は幸運なのに、これ以上なにを望むのか?」と言われた気がした。

たしかに。

まったく僕は「これ」以上を、「これ」を超えて望むことはできない。例えば僕は僕の人生に則って、彼女やお金が欲しいと望むことは出来る。そしてそれは可能な出来事だ。

しかしこの欲望は「これ」の範疇から逸脱はしない。あくまで「これ」のバリエーションでしかないし、欲望が捉えうる対象を「これ」は超え出ている。

まるでコインの裏側が表側に恋い焦がれるようなナンセンスだ。

もし本質的な幸運があるとすれば、幸運と不幸を測る尺度を“もたないこと”のはずだし、もしそうなら幸運なんてものは存在しない。

あるとすれば、好運(chance)のほうかもしれない。バタイユが使った「今あることを好く」という意味だ。

けれどこれは現状維持や、現状満足を意味しているのだろうか?「吾足るを知る」という老人じみた繰り言なのだろうか。

好運という訳語からでは汲み取れないが、chanceには「機会」という意味もある。もし機会とするなら、今まさにちょうどいい位置にいて、その機会に身を乗り出すこと、それが好運の意味なのだと思う。

現状は機会だ。というのは言い得て妙だ。ここには幸も不幸もない。

けれど今の僕にはなんらかの重みがある。茫漠とした不安の灰色のもやが、僕のまわりを取り囲んでいる。僕はいつになったらこの不快感の霧を抜けるのだろうと怯えるのと同時に、まさにこれこそ血を流しこんで愉しむべきことだと思う。

道真公だったらなんて言うのかな。