日記を書こうと思った。
理由は今日の学校のゼミで取り扱ったブランショの本の中でカフカの日記が引用されていたからだ。
ふつうに考えればブログは日記を不特定多数に公開するのによく使われるのだから、僕がそのように使わない手はない。
もちろん日記を書きたくなかった理由もある。それは日記はゆるゆるの文章でも、どんな文章でも「日記」になるからだ。
ときどき人のブログや日記を読むけれど、ぜんぜん楽しめない。基本的にどこかの誰かが今日、どんなことをしたかなんて興味ない、とはいえカフカの日記は面白かった。
なぜ面白かったのかを考えると、そこにはその人の輪郭線をひくような考察がはいっているからじゃないかと思う。
ならば僕は今日あったことの中からなにを選ぼうか。今日の朝、僕は金縛りに遭い、ひどく呻き部屋の壁をどんどんと叩いた気がする。それから起きて、昨日の残りの豚汁を食べて、洗濯をして、お昼用のサンドウィッチをつくり…
うむ。面倒くさいですね。
そうだな。日記というものについて書こう。今日読んだのはモーリス・ブランショの『文学空間』という本でそのなかでカフカの日記、たしか1914年の12月のものだったと思う。
カフカはまだ健康で、死など怖くないと軽薄そうに書いていたように思う。それを引いてブランショは芸術は死との関係であると書いていた。
彼の芸術論については承諾しかねるところもあるけれど、日記を扱うという点については賛同だ。このカフカの日記は、生前友人に「自分が死んだらすべて破棄して欲しい」と言われたものらしいのだけど、その友人はカフカが死ぬとすぐに本として刊行してしまった。
だからブランショがその日記からカフカの芸術観を読み取るのは、いわばズルだ。けれどブランショ側の言い分としては、「書かれたもの」はつねにすでに他者のものであるということらしい。
その通りだと思う。言語という他者を通して語られたものは、つねにすでに社会的、共同体的なものになる。それにもし日記を自分に宛てて書いたとしても、その自分は過去や未来の自分、つねにすでに自分ではない何者かに向いている。
ならばそれは誰なんだ?
という疑問が浮かぶ。
けど、まぁそんなことはいいか。今日はとてもつかれたから、この辺りで。てか、これ日記なのかな。次はもう少し日記ぽくしよう。