「きのくんは女の人を見るとき、性的に見ますか?」 ジェンダー論の授業で聞かれた。 咄嗟に「見ます!」と言ったのをよく覚えている。 もちろん、「見ません!」と答えられればよかったのだが、それでは嘘になる。

性的であるということ 性的であるということ

性的であるということ

性的であるということ



「きのくんは女の人を見るとき、性的に見ますか?」

ジェンダー論の授業で聞かれた。

咄嗟に「見ます!」と言ったのをよく覚えている。
もちろん、「見ません!」と答えられればよかったのだが、それでは嘘になる。


どうしてそんなことを聞かれたのか覚えてはいないし、いま考えれば鬼のような質問であった。百歩譲っても授業で聞くことじゃない。

とはいえ、あのとき、あの先生はどういう意味で聞いたのだろう。

「人を性的に見る」とはどういう意味だろう。

第一に、対象の性を理解している。もしくはそのように思いなしているというレベルが必要だ。たとえば天井の染みがどうしても顔に見えたりすることを「パレイドリア」と呼ぶが、性の認識にはこのように「どうしても」抗えない強制力がある。

つまり本人の意思とは無関係に、人は性を判断してしまう。
(イスラム教において女性がベールをかぶっているのは、男性を魅惑してしまう可能性があるからだが、このように性には否応のない「魅力」がある。)

このレベルで重要なのは、その対象が生物学的な雌雄を持っているかいないかは全く問題にならないことである。たとえば性器の描写や、ダッチワイフのようなものに限らず、セーラー服やスーツ、あるいは糞尿や残虐行為であってもそれを人々は性的なものとして見なし、リビドーを備給する。

当然これらは内的な運動であり――ある文化的領域を形成しているとはいえ――その判断は個人的な主観の領域をでないし、外的な対象を通じてのみ間接的に共有できるだけであり、その体験を直接に共有することはできない。

これを広義での「性的に見る」とは区別して「性的に見做す」と呼べるかもしれない。

これはほぼ、反応のレベルでなされる。それが外的な経験や文化的・社会的な構造によって誘発されているとしても、意思によってそれを斥けることができないという意味で、無意識的に性を付与するからだ。

この性の無意識的付与、「性的に見做す」というレベルが上記のようだとするなら、「性的に見る」とはある客観的かつ、自由意志を含んだ判断がつけ加わっていなければならない。

なぜなら、もし人に性的に見做すだけのレベルしか存在しなければ、そこに選択の自由はないからである。
選択の自由のない視覚とは、固定された眼球、焦点を結ばないレンズである。ここにあって性的に見る/見ないの区別は意味をなさなくなるからである。

では第二のレベルを考えてみよう。それは対象を性的に見做した上で、より積極的に凝視すること。極端に言えば「視姦」のレベルである。

だがここに曖昧な領域が生じる。つまり「性的見做し」と「視姦」をどのように区別するかである。性的見做しは一瞬であるが、視姦は一瞬ではないとか、主観と対象とがお互いにそうであると認めた場合であるとか、いずれにせよ曖昧であることには変わりない。

とはいえ視姦は“権利上”自由意志によってなされなければならない。なぜなら、主体の能動的な行為であるからだ。

そして性の目的=終わりを性交に求めるならば、この視姦において「視覚的な性」は頂点に達するであろう。それ以上、性的に見ることはできないからである。

これらを踏まえて最初の問い「性的に見る」について考えるなら、必然的にいま挙げた二つのレベル(「性的見做し」と「視姦」)に挟まれる。

つまりまず性的に見做しているか?という問いがあり、次にそれに意識的であるか?という問いがあることになる。

これに対して、第一のレベルから全てを否定する場合、それを受け入れつつも第二のレベルを否定する場合、双方のレベルを肯定する場合がありうる。

ここであの時にもどって答えるなら、僕は生活の大部分においては第一のレベルを肯定しつつ、第二のレベルは社会的に公開しないと答える。

だがあの時のクラスの静まり返った印象を思い出すに、第二のレベルの肯定ととられたように思う。そもそも、第一のレベルを肯定することさえ社会的には、タブーであるとされているからこそあんな質問をされたのだろうし、こんな珍妙な分析をする人も稀だろうから、混乱を極めるのだ。

このタブーは奇妙ですらあるし、不気味である。

とはいえこんなことに時間をかけて、考えている僕のほうが奇妙で不気味かもしれないな。