「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?」 このセリフほど有名で、呪われた運命という表現にぴったりの言葉はない。

運命 運命

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「ロミオ、あなたはなぜロミオなの?」

このセリフほど有名で、呪われた運命という表現にぴったりの言葉はない。


しかし「偶然の出会い」の驚きのより、根本的な“驚愕”は、この世界に居合わせていることだ。まずもって、このように存在しており、息をして生きていることが驚くべきことではないか。

それが日常生活において問われることはほとんどない。ハイデガーに倣えば、日常性へと頽落してしまっており、人間の固有性を基礎づける「死」を忘れているからということになる。

もしこの日常生活の文脈において、「なぜ生きているのか?」と聞けば「それは生まれたからだ」と返されるだろう。それが大人のお決まりの回答だからだ。

そこから一歩踏み出した人々にとっては、「生きるべきか死ぬべきか」それが突きつけられた問いであり、それを基底する感情は少なくとも、生への諦観と驚愕なのである。

つまり今、生きている私たちは「生存者」なのであり、他人の死を少なからず知っており、死の可能性を過去に当てはめては自分が生まれなかった可能性さえ考えるのだ。

この種の思考上の運命は、ひとたび受け入れてしまうと“生全体”を覆い尽くしてしまう。つまり森羅万象は強力な「力」に支配されており、その必然性は権利上、全てを含まないとならなくなるからである。

全ては運命であるというわけだ。

このような典型的な運命論は思考によって生み出されたものであり、体感されたものとは微妙に異なるのではないか。

もちろんこの種の素朴な観念は、暦の発明以降、占星術やトーテム、陰陽説や仏教に至るまで私たちにしっかりと根づいている。たとえば「ありがとう」は「有り難い」ことであり、つまり有ることが稀なのだから、そのことが運命的であることを示している。

しかし西行の有名な言葉「なにごとのおはしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる 」といった、原子と原子が衝突して核融合を起こすような衝撃もまた同様の運命なのであろうか。

ここにはある緩やかな対立が存在しているように思う。

喩えてみれば、ハリウッド映画的な「主人公の不死性」と、フランス映画的な「突発的死」のようだ。どちらも強固な運命観を表わしているが、前者が意志と力によって切り拓かれるものにたいして、後者は翻弄と戯れによって与えられる。

少し脱線するが、現代アートのわからなさもこの運命観の齟齬によって生じているように思う。つまり、自由意志で歩んでいると感じるような日常(ハリウッド型)において、珍重されるのは論理的先後関係である。例えば、いい学校を出ればいい会社といい家族を作れるといった幻想だ。

それは絵画が視覚に似せた遠近法によって描かれ、音楽が和声で構成されている状態である。

だが、モダニズムはポロックのドリッピングによって代表されるように、それはいわば運任せ、偶然に造られたものである。もしくは非人間的で、タッチが顔のない作者を指し示す無機質な絵画。途切れ途切れで、突発的な出来事からなる音楽。

それらはギリシア悲劇的(フランス映画的)な不条理からなっている。

そこに論理的先後関係はない。あるとすれば、絵具の粘度や重さから生じる形態、空気の振動数からなる音の特質といった教科書じみた物理的現象なのである。それをあえて作品として提示されることへの戸惑いがあるのだろう。

話をもとに戻すために、この運命について考えるきっかけになった歌を引いてこよう。

黒木渚という歌手の『骨』という歌である。

「生活や学問や、あるいは恋において、気まぐれな思いつきが私を立たせている。…国籍や性別やあるいは肌の色や、さまざまな枠組みが私を作っている。…それはまるで骨のように私を燃やして残るもの。」

歌詞とは、音楽がないと、こうも無感動になってしまうのが、残念だが、気になる方は聞いて頂きたい。それはともかく、これはどちらかと言えば悲劇的な運命観であろう。

と、書いてから、ああこれはニーチェのいうアポロンとディオニソスの対立だと気がついた。アポロンは太陽であり、昼間であり、ロゴスであるとするなら、ディオニソスは狂気であり、夜であり、カオスである。

この文章を書くきっかけの本にそんなことは書いてあった。木田元『偶然性と運命』のなかでニーチェが引かれていたのだ。孫引きになるが引いておこう。

著者がニーチェの運命愛(アモール・ファティ)という概念について説明している箇所だ。

「ディオニソス的な世界肯定、あるがままの、割引きもせず、例外もつくらず、選択もしない世界そのもののディオニュソス的肯定への到達を欲する」ニーチェ

(なんて下手なパッチワークのような文章だろう。不誠実な引用と、一貫性を欠いた主張。冒頭のロミオの話はどうなったのだ。

劇的で巧妙な開始から、衒学的考察、確固とした諸参照を通して、明晰軽妙な主張をするつもりが、これはどうしたことだろう。

論理は滅裂、語尾もおぼつかなければ、引用も孫引きと手を抜いたものだ。

それでも最初の構成からすれば、最後に論理的な運命観と、戯れ的な運命観を恋によって結びつけ、冒頭のロミオとジュリエットも回収するはずだったのだ。ここまで書いたのだから終わりまで行こう。)

このような運命の肯定がもっとも鮮烈に感じられるのは、やはり恋なのではないだろうか。

ジュリエットがロミオの姓(姓とは血縁という運命の別名だ)を恨み、名だけを欲しがるのは家族的、論理的、合理的運命へ反逆し、支離滅裂で、非論理的な瞬間のみを望んでいるからなのではないだろうか。

それは純粋な出会いへの驚きでもある。可能性の高低を超越した驚愕なのだ。可能性が高かろうが低かろうが、起こるものは起こるし、起こらないものは起こらないという、賭である。

そして出会いとは、賭けに勝ちそうだと感じる引き伸ばされた高揚感なのである。もしかすると、女はファム・ファタル(運命の女)かもしれない。だが、結末はいまだない。

Destinyが運命であるか知るためには、Destination(終点)を見届けなければならない。

しかし私たちはそれを死としてしか受け取れない。受け取れないとは、受け取ることができないということだ。

つまり出会いのみで存在しているのである。

そして、〈出逢い〉こそ、「〈他〉へ開かれ、自己から離れる」ことによって真の自己となり、「他者の経験を私の経験のなかで捉えなおす」ことによって自他の真の統一を形成する具体的場面とは言えないだろうか。木田元
  1. 最近死って呼ばれている現象の言及されてる分解能低すぎるなって思うよ。

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    1. 二度目のコメントありがとうございます!
      でも、誤変換があったみたいで、どういう意味なのかわかりません。
      ごめんなさい…m(_ _)m

      もしよろしければ詳しくお聞かせ下さい!

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