あまり時事的なことは好きじゃない。 安倍政権がどうしたとか、憲法の解釈がどうのこうのと(思うけれど)書きたくないのだ。 できるだけ言葉には無責任であってほしい。

エンブレム エンブレム

エンブレム

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あまり時事的なことは好きじゃない。

安倍政権がどうしたとか、憲法の解釈がどうのこうのと(思うけれど)書きたくないのだ。

できるだけ言葉には無責任であってほしい。


政治を語る言葉は主体に結び付けられた、有用性の言語であり、殴り合いのための言葉だからだ。

もちろんこの世界にはそういう場所が必要だし、ぼく自身、酒の席で相手の意見が差別主義的であるという理由から、文字通り殴ろうとしたこともある。

演説じみた言葉は「あなたの問題であり、聴かねばならない」というふうに言葉を押し付けてくる。なぜなら演説の言葉は、それが有用だと思って、疑っていないからだ。

僕は嫌だ。

とはいえ、今回は少し政治的な話題をしたいと思い立った。

2020年の東京オリンピックエンブレムについてだ。経緯や解釈はググればでてくるので省略しよう。

まずはあのエンブレムそのものがどういった出自なのか考えてみたい。

佐野さん(氏というのは好きではないので、こう呼ばせてもらう)の会見をみると、アルファベットから構想を始めたのは確かだ。けれど、同時にグリッドという契機も見逃せない。

グリッド(紙面分割)を基礎にしたデザインの展開というのは、ピクトグラムなどにもよく使われる考え方だ。たとえば、最近MITのロゴが刷新されたが、このようにある規則に従って内容を次々と展開できる。

今回のエンブレムもオリンピックとパラリンピックという二つのパターンを提示しているし、それ以外の展開も考えていたとされる。それがグリッドの強みだ。

だがグリッドが興味深いのは、そのバライティの産出の容易さに止まらない。美術史においてグリッドの登場は画期的な出来事であったのだ。

その革新性について、アメリカの美術史家、ロザリンド・クラウスの言葉をひこうと思ったのだが、引用してみたら長かったので、やめた。

一言で言えばグリッド構造を持つ抽象画は、その無意味さによって言語芸術から視覚芸術を切り離したというのだ。つまりグリッドにはそれまでの具象絵画にはない、それ固有の時間と空間をもつということだ。

グリッドには時間の経過や、物語はないし、奥行きや手前という空間的な意味もない。

つまりモンドリアンやマレーヴィッチの絵画に特有なように、グリッドというシステムを使用することは、実際に時空間にある対象を模倣しないことである。

グリッドは目の前にあるものの再現前化を拒否し、そこへ「反復」という要素を加えることによって、タッチや構図などの表現手法を幾何学的にし、絵画を匿名化した。

例えば同じ抽象であっても、マレーヴィッチやモンドリアンの絵画は、ピカソやミロとは違い、真似しやすい。それは誰にでも描けるということだ。(これはそれまでの伝統的絵画ではありえない)

もしそうだとするなら、その絵画に「意義」はあるのだろうか?誰にでも作れるものに意義や価値があるはずないと多くの人は考えるのではないか。

この無意義さはデュシャンのレディメイドから、ウォーホルのキャンベル・スープ缶、ドナルド・ジャッドのスタックシリーズに至るまで、あらゆる現代美術が提起してきた問題であり、現代美術が嫌われる最大の理由でもあろう。

(今回のエンブレムもグリッドがもつ問題、「意味がわからず」「誰にでも描ける」という批判に曝された。)

グリッドとはこのようにある意味、完璧に閉じられた体系を提供する。そこには誰かの説明も作者の顔も、時間の経過も、意味も見いだせない。

そして、このような視覚にしか表現できない閉鎖性を前にして、物語的な合理性、先後関係を重視する思考は戸惑う。

グリッドが視覚芸術と言語芸術を分離させたと言われるのはこのためである。

しかし、このグリッドは現代美術に特権的なものではない。見落とされがちだが、源流はもう一つある。

それはデザインだ。デザインという言葉はとても曖昧で使いにくいが、例えばイスラムの教会に用いられる幾何学模様は、――格子状でないが――ある規則と展開によって、神を描写するする代わりに考えだされたものだ。

日本であれば、箱根細工にみられるような幾何学模様は伝統的に好んで用いられてきた。例えば、ウィリアム・モリスの装飾模様のように、植物をモチーフにするのではなく、純粋な幾何学的規則を装飾とする考え方だ。

より近代であれば、バウハウスの機能主義を体現したデッサウ校舎、もしくはデ・スティルのリートフェルトがデザインした「レッドアンドブルーチェア」など、グリッドを中心に考えられてきたデザインは枚挙に暇がない。

完全にグリッド的とは言えないまでも、Googleの新しいロゴもまた同じ流れのなかに位置づけられるだろう。

このようにデザインが自らに枠組みを設けてその制約内で自身を完結させるために、つまり自らを自律させようとグリッドを取り入れてきたことは明白だ。

遠回りをしたが、オリンピック・エンブレムにもどろう。

エンブレムは、たしかにTと=をコンセプトに持つと説明されていた。しかし、その原理は紙面をグリッド上に分割して、丸や正方形の要素を配置したものからなっている。

(今回のエンブレムがグリッドに基いていることは、歴代のオリンピック・エンブレムを比較してみれば明白に理解して頂けるだろう)

佐野さんはTや=という日常的、有用な記号をグリッドによって解体したのだ。つまり、このエンブレムは対象をもたない。これは厳密に、Tや=という記号ではないし、なにも指し示さないのだ。

グリッドシステムには、当然ながら“花”や“山”など具体的な意味はない。むしろいま見てきたように、グリッドはそういった具体的な対象を嫌悪し、排除する伝統的なシステムであった。

このように一義的な意味を持たないがゆえに、そのシステムに従った多様な展開が可能なのである。

しかし同時に、一義的な意味の欠如とは、それだけでは具体的な意味を持っていないということである。むしろデザインはその意味の無さによって、純粋なデザインになりうるのだ。

(確かにここにデザインのパラドックスがある。自律したデザイン――自立ではない――はユーザーとの関係性のなかにおいてその自律性を発揮する。だがそれは意味としてではなく、体験としてである。)

意味が無いからこそ、東京オリンピックという出来事を「象徴」できるのであり、時間をかけて意味に「なる」のだ。そのためにグリッドの使用は要請でさえあっただろう。

ここまでがデザインにおける、エンブレムとグリッドの関係である。

だがここから全く別の観点が導入されなければならない。なぜなら結果的にこのエンブレムはオリンピックのシンボルになる前に使用中止となったからである。

完全な無駄であり、役立たず、非有用なものになったのである。

社会的にこの事件はスキャンダルとして、損失として扱われたが、祝祭がその民族学的意味のとおり、財の無意味な消尽であるとするなら、実に象徴的な出来事である。

有用性からの転落。

それはあらゆるデザインがその狭間で葛藤し、芸術が少なからず欲望するものだ。今回のエンブレムははからずも、その両方を露呈させた。

すくなくとも今回の事件は盗用か否かといった表層的な問題を超えた問題を提起した。

それはデザインと有用性の問題である。
しかし、この問題はとても面白いのでまた今度にしよう。

追記:この文章は一週間ほど前に書き上げたはずなのに、今ではすっかりエンブレムの問題は忘れられてしまった。もしそのことに違和感を感じるなら、エンブレムについて盗作疑惑とは違った観点から考えるべきだろう。