寝転んでいて、5時のチャイムの音が霞むくらい遠くの方から聞こえてきて、何か書こうと思って、ベッドから這い出て、なにを書こうと思ったのか忘れてしまった。 それにはれっきとした理由があった。文章の題名を『不思議の国のアリス』から引いてこようとしたのだが、どこの箇所だ...

curiouser and curiouser curiouser and curiouser

curiouser and curiouser

curiouser and curiouser


寝転んでいて、5時のチャイムの音が霞むくらい遠くの方から聞こえてきて、何か書こうと思って、ベッドから這い出て、なにを書こうと思ったのか忘れてしまった。

それにはれっきとした理由があった。文章の題名を『不思議の国のアリス』から引いてこようとしたのだが、どこの箇所だか思い出せなかったのだ。


“curiouser and curiouser”

これはアリスがヘンな飲み物を飲んで身体が大きくなってしまったとき、驚きのあまり発した言葉なのだ。だからこんな英語は存在しない。

この間違った英語を探しているうちに、なにか茫漠とした衝動のようなものが霧散したのだ。

霧散するまえ、つまり僕がなぜ寝転んでいたかというと、憂鬱がひどかったからだ。このところは、ほとんどまともな生活を送れていない。

まともな人たちがまともな世界を作り、まともな生活をおくって、まともに死んでいく。

今の僕はそのまともさから取り残されてしまっている。一週間の8日目にいるような、リズムの裏拍だけを這いずりまわっているような気分だ。

またチャイムが鳴った。三十分前になにか思いついてから、三十分が経過したということである。けれど、昨日も、そして一昨日もこのチャイムはなっていたのだろうか。

キーンコーンカーンコーン

チャイムが僕のなかで反響している。チャイムの音がうっすらとした霧のようになって、頭のなかに忍び込んでぼんやりと鳴っているのだ。

キーンコーンカーンコーン

僕はそれが過去に鳴ったものだと理解している。そして明日も鳴るであろうことを理解している。だがそれはなにを意味しているのだろう。

誰かが言うように、なにか持続するものがあるのだろうか。

キーンコーンカーンコーンがキーンコーンカーンコーンと、ひとまとまりになって聞こえるのは、音が聞こえていない空白をも数えなければいけない。この空白も数えられるのは、それを含んだ持続が必要なのだろうか。

すくなくとも、今日のような日(それが日曜日の午後でないのが残念だが)はこの流れのようなものを感じる。どこかの車のドアが閉まる音や、犬の遠吠え、パソコンの排気音がいやに耳障りだ。

音は鼓膜に触れる。いつもは聞き逃してしまうものが、ほんとうは、自分のなかに侵入してきているものだと理解する。得体の知れない女に抱かれているような、白く透き通った無数の芋虫が身体の隅々にまで蠢いているような。

空気が身体をつつみ、足は床に触れている。なにもかもが身体にべったりとへばりついているのだ。この身体から出ることもできない。言葉たちもそうだ。頭から離れてくれない。

なにもかもが、なにもかもが、なにもかもが、なにもかもが、存在している。

いや、存在していたのであり、これからも存在するであろう。

それが耐えられないのだ。現に存在していることが苦痛なのではない。過去に存在していたこともまた苦痛ではない。これからもまた存在するであろうことが苦痛なのだ。

いまだ来ないものに耐えようとしているから、苦痛なのだ。ほんとうは無いものに怯えているのだ。

もう嫌だ!(まただ。僕は文章を書いていると、いつも耐えられなくなる。)

この文章を書きはじめた僕は、なにか文学的なものを書きたかったのだ。タネを明かせば、太宰治の「トカトントン」や村上春樹の「TVピープル」のような擬音と、反復と、連続性について暗喩したかったのだ。

だが気がつけば、純粋持続のようなものや、存在のようなものについて書いてしまっている。

そして今僕はカントの有名な一文を引いてこようとしているのだ。

「〈私は思惟する〉はすべての私の表象に伴いうるのでなければならない」

ここでカントが言いたいのは、(と中島義道さんの解説をもとに書くわけだが)、「私が考えるということは自分のなかのイメージと、いつもくっついていなければおかしい」ということらしい。

なぜなら、あるイメージが「私のなかの」イメージであることと、それを私が考えられることが一緒になければ、私にとってそのイメージは無いも同然じゃないかということらしい。

とても限定的だが、それゆえに明瞭な考えだと思う。

たしかに、私が考えることができる大前提は、そのイメージと考えることが繋がっていなければいけない。

これでカントの解釈があっているのかどうか、僕にはさっぱりわからないし、おおむね間違っているだろうけど、教授に見せるわけでもないのだからこれで良しとしよう。(なぜなら僕は書くためだけに書いているのだから)

結局のところ、あらゆる対象は僕にべったりとへばりついているのだ。それは必然的という意味で、合理的なことなのかもしれない。

けれど、僕にはなにかヘンな気がするのだ。

このヘンさを測る基準はない。それはまともな人たちが、自分たちをまともであると言えないのと同じことだ。

CURIOUSER AND CURIOUSER
CURIOUSER AND CURIOUSER
CURIOUSER AND CURIOUSER
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