いつも読まないようにしている新聞を読んでみたら、もやもやしてきた。

イッパンキョウヨウ イッパンキョウヨウ

イッパンキョウヨウ

イッパンキョウヨウ



いつも読まないようにしている新聞を読んでみたら、もやもやしてきた。


新聞やニュースを「読まない、知らない」と公言すると馬鹿にされるが、僕は新聞やニュースが大嫌いだ。理由は単純で、暗い気持ちにしかならないからである。

そもそもなぜニュースなんてものがテレビや新聞で報道されているのかもわからない。特に新聞は、なにか起きてから記者が文字に起こして、印刷して一軒一軒の家に配るなんて気違いじみている。

すると同じ疑問を抱いている人が知恵袋で質問していて、その人は「ネットニュースで事足りるから新聞なんて読まない」と言ったら、上司から「新聞を読まないなんて社会人としておかしい」と言われたらしい。

ある批判として「社会人として」とか「人間として」「男として」「女として」といった漠然とした根拠が持ち出される場合、その区別のなかにもともと前提を密輸入している可能性が高い。

つまり「社会人とは新聞を読むものだから、社会人は新聞を読まなければいけない。」というトートロジーである。たぶんこの上司はなんの疑いもなく機械人形のように、新聞を読んでいるのだろう。

こんなふうに考え始めると、社会人という言葉もレトリカルだ。辞書を引いてみたら「社会の成員としての個人、実社会で活動する人」とある。

社会が共同体の一種であるとするなら、それに属してない人間というか、生物というものは考え難い。

Wikipediaを引いてみたら、社会人から学生は除外されると書いてあった。学生も交友関係をもったり、家族と接したりしているのだがこれは社会との関係ではないというのだろうか。

確かに日常的な言葉づかいとして、学生が卒業して会社に入ったりすると社会人デビューと言われたりする。以上を総合すると、社会人とは“会社人”の書き間違いなのではないかと思う。

先ほどの上司の例も、会社人であれば論理の筋が通る。

つまり、会社とは自社の利益を追求する社会的活動体であって、その利益追求のために政治動向やマーケットの情報を収集しなければいけない。ゆえに最新情報としての新聞を読まなければいけない、というなら筋は通るからだ。

弁護士が法律書を読むように、会社人は資料として新聞を読む。新聞購読を労働の一環としての情報収集であるとするなら話はクリアになる。


しかし話はそうも簡単ではなかった。日本新聞協会のサイトによると「一般教養は新聞を読まないと身につかない」らしい。

反駁のようになるのは嫌なので引用はしないが、要約すると、事実は一つでありそれにたどり着くまでには複数のメディアや多様な意見を総合しないといけない。またインターネットが“目的のメディア”であるのに対して、新聞はもう少し多角的なメディアであるがゆえに一般教養が身につくという骨子だった。

一つめの「事実は一つ」というのはよくわからない。でもこの人は「人間として成長するためには、一つの事実に対してたくさんの真実を知ることが重要です。」と言っていて(あ、引用してしまった。)、彼にとって「事実」は一つだけれど「真実」は複数らしいし、人間は成長するらしい(成熟でも発達でもない)ので触れないでおこう。

二つめの意見は同感だ。確かにインターネットの検索は目的に従属した情報がヒットしやすい。新聞にある社説やまとめやコメントのような意見に触れにくくなる。検索で触れられる情報はそれが適度に抽象化されていなかったり、偶然的な遭遇はしにくいからだ。


別の言い方をしてみよう。

僕は少し前に心理試験を受けたのだが、イタリアの首都は答えられずに論語と枕草子の作者は答えられたため、一般常識がなく無駄な知識があると試験官から言われた。

だが僕からすればその「一般常識」という定規のほうが狂っているように思う。イタリアの首都がローマだろうが上海だろうが、論語や枕草子の作者の名前なんてどうでもいい。

『論語』の場合は孔子の深い湖のような静謐な精神に触れられたから、『枕草子』の場合は清少納言に恋をしたから、両者の名を忘れることができなかっただけであり、覚えようとして覚えたものではない。否応なく覚えてしまったのだ。

(蛇足だが『論語』の編纂過程はいまだ明らかでなく、孔子の語ったことを中心とした書物であるとは言えるが、作者はだれか?という問いを立てた者は論語の成立過程についてなにも知らないし、考えなかったであろうことが伺える。)

イタリアに行ったこともない人がその首都の名前を知っていたり、論語を読んだこともない人が作者を孔子だと理解しているほうが僕には異常に映る。

「一般常識」や「教養」という道徳的な形をまとわせたイデオロギーにはうんざりだ。今や首都の地名や本の作者名ならスマホのなかにある。

僕ら人間がそのような情報にリソースを割く必要はもはやないのだ。

つまり僕らにとっての教養とは、先に書いたような観念の忘れえない連合状態であって「イタリア→ローマ」「論語→孔子」といった質を伴わない記号連関は無価値になってきているのだ。

たとえば「イタリアの空のどんなところが好きですか?」とか、「論語の教えについてどう思いますか?」といった問いに応えられる人の方が教養人だと思うのだが、そんなことないのだろうか。

けれどさっきの新聞の人に言わせれば「なぜアイスランドは債務不履行したのか。」とかが教養らしい。

奴隷教養

そんな言葉がふと浮かんだ。もちろんニーチェの言葉からの連想だが何の奴隷かといえば、さっきの新聞の人はこう書いていた。「ただ、社会の一員としてやっていくために、世の中で起きていることを知るのは大事だと思います。」

この「社会」という言葉は最初に書いたトートロジーと同様だ。(社会とは世の中のことだから)すると彼の言う教養は、社会が必要とする限りでの記号連関ということになる。それはググればででくるやつだ。

だが何かの目的に隷属した「教養」は道具でしかない。むしろ教養とはそういった目的の道具的な連環を超えて生に活力を与えるものなのではないだろうか?

その点、新聞やニュースは生に偶然性と不純化をもたらす。だがその偶然性が生を震撼させることはまずない。ただ不快感だけを残す。なぜなら出来事の不条理性や矛盾に合理的な説明をほどこすからだ。

だがその出来事がいかに矛盾と不条理に貫かれているかを提示し、需要者を混乱のさなかへと突き落とすべきなのではないだろうか?

問いのないところに答えはありえない。

算数ドリルに付属してくる答えのページのような情報になんの価値があるというのだろうか。どんなに一般教養があってもそれを問題視できない時点で無価値だ。

価値はどんなに些細なものであっても、自ら見出さねばならない。そのためには安易な解答ではなく、身に沁みた切実な問いが必要だ。

だが今の新聞やニュースは安易な解答ばかりが溢れかえっている。それを自らの問に仕立て直すのはとても労力がいるから、結局ネットで納得するまでサーフィンすることになる。

教養が共同体において担保されているのは確かだ。だがそれはその共同体内で共有されるべき最低限の情報ではなく、共同体のなかで発見できる自分だけの出来事の捉え方だと僕は思うし、そのときに新聞やニュースのようなイッパンキョウヨウはほんとうに無意味だ。

僕らは自らを不断に不純化していかなければいけないのかもしれない。
  1. common sence(常識)って元々は、「国家が国民に対して行う義務教育」によって均質に行き渡る知識のことをさしてたんじゃなかったけ?
    ちなみにそうやって新聞を読んでる人の何割が利潤の為の道具として、その活字情報を使えるんだろうね。利潤最大化の為に必要なことは、記号の組み合わせの中に隠れた、お金の流れを読むことなはずだよね。答えが目の前にあっても、問いを知らねば、答えることはできない。

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    1. common senseを調べてみたけど、そういう意味は出てこなかったよ?
      むしろ古代ギリシア、アリストテレスの著作までかのぼり、五感を統合して判断を下す能力らしいよ。(by岩波哲学辞典)

      自分で書いてて思ったけど、利潤のための道具にできてる人は少なそうだよね。かと言って人生を脅かしたりスリルを与えてくれるものでもないし…薬にも毒にもならないとはまさにこのことだと思うよ。

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