ブログとはweblogから来ているらしい。

Web Log Web Log

Web Log

Web Log


ブログとはweblogから来ているらしい。


このlogという言葉も意味深だと思って調べてみると、日常英語においてまず挙げられているのが「丸太」(loghouseのlogだ!)で、次に航海などの「測定器」、最後に航海日誌など、いわゆる記録になる。

だからブログが今の日本語で「日記」のような意味として捉えられるのはとても派生的な事態らしい。で、この“log”という語幹はlógos(ロゴス)から来ていて、論理の意味が強い。つまり前後関係を重視するから、測定器だとか航海日誌だとかに使われるらしい。(そうすると、なぜ第一義が「丸太」なのだろうとも思うのだけど…)

weblogとしてより言葉に忠実なのは、例えばQiitaのようなサービスなのかもしれない。逆にブログ村のようなサービスはムラという名前からしてなんだか違う感じがする。

(なんでQiitaが出てくるのかというと、今のバイトと少し関係があるからなんだけど、それはまた今度)

というのは、ある知り合いに「ブログを書いているのだ」と言ったら、その知り合いから「私もブログを書いているからアフィリエイトを踏んでくれ」だとか、「応援クリックを押してくれ」といったLINEが来て興ざめだったからだ。

これは、あれ。兼好法師が徒然草の11段に書いた「少しこと冷めて、この木なからましかばとおぼえしか。」の心情。

この11段は、ある神無月のころ、彼が山奥に分け入り侘びしげな庵を発見する。こんな山奥に静かに佇むように人が住んでいるのだと感心していると、たわわに実ったみかんの木があり、それを策で頑丈に囲っているのを見つけてしまう。

そのときに彼は興ざめして、この木がなければよかったのに。と書いているのだ。その感じにとてもよく似ている。

もちろん僕だって、文章を書く以上は読んで欲しいし、レスポンスも欲しい。その気持はとてもよくわかる!けど、そのレスポンスを数字や貨幣に還元してしまうのはちょっと違う気がする。広告の入った文章は(読み込み速度としても)重くなってしまうからだ。

この重みとは、所有の重みである。文章が現実の諸事物に紐付けされることで、その無責任さと軽みが失われてしまうのだ。僕の文章はできるだけ軽くありたい。

ブログはあくまで航海日誌のような記録であり、その航海の軌跡でしかない。僕にとって本質的な価値は、航海そのものであり、けれどそれを振り返ったときに少し喜びを覚えられる“切り出されたlog”のようなものなんだ。

だからそれを有用性へと隷属させるのは、僕のなかではちょっと違う。


村上春樹さんの小説『かえるくん、東京を救う』のなかで、“かえるくん”という巨大なカエルが平凡なサラリーマン(片桐)に会いに来て、「これからぼくは地下で大地震を起こそうと企んでいる“みみずくん”と闘う」から助力してほしい。と頼むシーンがある。

それに対して片桐は、空手とか自衛隊のレンジャー部隊の方が適していると断るのだが、かえるくんはあなたではなくてはダメなのだと言う。

かえるくんはくるりと大きな目をまわした。「片桐さん、実際に闘う役はぼくが引き受けます。でもぼく一人では闘えません。ここが肝心なところです。ぼくにはあなたの勇気と正義が必要なんです。あなたがぼくのうしろにいて「かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい」と声をかけてくれることが必要なのです」

この勇気と正義という対(つい)はギリシャ哲学の徳(アレテー)と呼ばれるものだ。初期のギリシャ哲学における徳とは、現世利益と結びついていたが、ソクラテス以来それは主に魂の「善さ」として展開された。

つまり現世や肉体からは離れて存在する価値ということになる。かえるくんにはそれが必要なのだ。それもかえるくん一人ではだめで、平凡だけれど勇気と正義を兼ね備えた人物の応援が必要ということになる。

僕はこの小説を英語の勉強用で読んでいたのだけれど、それとは無関係に涙ぐんでしまった。なぜなら、ここに村上さんが小説に向かう姿勢のようなものを感じたから。それは無力さなんだと思った。

この無力さという言葉を僕はバタイユさんという人から借りてきている。いや、正確にはその翻訳者である酒井健さんの本から借りてきているので、そちらの文章を拝借する方が僕がバタイユさんについて説明するよりもいいと思う。

「文学は「行動」の大人(メジャー)の世界のなかで、未成年(マイナー)の位置にあり、そのようなものとして自己の真正性を承認させるべく大人の世界に闘争を挑んでいる。〔…〕未成年ということは、非力(アンピュイサンス)ということである。つまり力に忠実であるということだ。「行動」の大人の世界に対する文学の闘争は、故に、二つの質の異なる力すなわち、力(ピュイサンス)と力(フォルス)の間の闘争、質的に相違する者が対峙する非対称の闘争なのである。」『バタイユ入門 』p219

このフォルスの方は瞬発的で、狂気がもつような力であるのに対して、ピュイサンスは権能とかと訳したりするように支配力のような意味をもっている。

“ペンは剣より強し”と言いうるのは、ペンが剣よりも非力だからに他ならない。たしかに大人たちはペンなんて剣で切り捨てられると言って恥じることを知らない。

けれど君はそのペンの強さを知っていると思う。

もっと正確に書けば、僕は君がペンの強さを知っていることに賭けているんだ。そして僕もその非力さに余生の全てを賭けたい。役立たずで無為な、くだらない、おまけにつまらない航海日誌に。
  1. 一生ブログ書き続けた人っているのかな

    返信削除
    返信
    1. どうなんだろう!でもそう考えるとワクワクするね!少なくとも僕は死ぬまで書きたいな。

      削除