なぜこうも忙しいのか。

多忙とは硬直である。 多忙とは硬直である。

多忙とは硬直である。

多忙とは硬直である。

なぜこうも忙しいのか。

この問いは行為の内実についてのものではない。なぜ私が生きているのか?という問いと同じ層にあって、私が仕事をしているからとか、移動が多いからといった答えを望んで発しているのではない。

問いたいのは、忙しいという“そのこと”だ。

例えば電車に乗ること一つとっても、乗車時間は出勤だろうとディズニーランドに行こうと同じはずなのに、出勤時間に多くをとられると忙しくなるし、ディズニーランドに行くための乗車時間はむしろ心地よいひとときになる。

たったひとつの例だが、忙しさとは物理的な時間とは無関係であることがわかる。もっと言えば物理的な時間(僕はこれを線状のものと想定している)が忙しいということはありえない。

そこに主体の体感覚は反映されないからだ。

もちろん現代物理学で言えば、時間の進捗は光子の速度によって規定されているから、空間が歪んでいたり、強力な重力が働いているときには、まさに物理的に時間が伸びたり早くなったりするだろう。

とはいえそのような変化があっても僕らはそれを看取できない。

僕の愛するcasioの時計はそんなことを示したりはしない。それはいつも同じテンポで進み続ける。この速度が不変であるとして、忙しさとはどう定義されるのか。

事実、僕は忙しい。しかしそれはどういう意味で忙しいのか。

今日、僕は寝坊して授業に遅れたし、昨日は仕事が終わらなくて授業に遅れた。授業はとりあえず時計の時間を元にしているから、時計の示す時間(これは僕も共有している)に開始され、僕はそれに間に合わなかった。

けれど、僕が授業に遅れることでいったいなにが起こったのか?僕は毎週あるテストを受けられず、失点をした。ならばそれは何を意味するのか?僕が進級できない可能性だろうか?進級できないとして、僕はどうなるのか?

会社も同じだ。会社の業務が時間通りに終わらないと、会社は損益をだし、その責任が僕にあるとしたら僕を解雇するだろう。しかしそれがなんだと言うのか?給料を失ったその瞬間に死ぬというのか?

僕が日常的に「忙しい」という言葉で言い表しているのは「短期的な目標が乱立しているがために、達成されない可能性が高まっている」という意味ではないだろうか。だとしたら、その枠組はどこにあるのか?

会社の締め切りだろうか?それとも授業の開始時間だろうか、それとも友人との約束だろうか…
このように書けば分かる通り、上記したものはどれも仮の枠組みでしかない。もちろん社会人と呼ばれる常識人は上記した虚構を真摯に受け止めて生きているが、同時に彼らもその透ける現実の向こう側を見ているだろう。

もし現実がミルクのように不透明に見えていたら、もしくは大地のように凝固したものとして感じられるなら僕のここまでの文章は馬鹿げたものでしかない。そのように見える人々にはそもそも問うことができない層を話題にしているからだ。

彼らは忙しさと休息の二次元平面に生きて、その二色の、つまり灰色の世界を甘受している。「忙殺」という語は彼らのような生に相応しい。忙しさに殺されるとは、休暇がないということではない。あらゆるものが目的をもち、つまり労働は貨幣に従属し、遊楽は気休めに従属している状況だ。

この粘りつくような生ぬるいミルクのような現実を生きている人々にとって、生は一つの作品として、完成を目的としてイメージされている。思い描いた自分というようなものと、現実の自分とかいうようなものを絶えず比較し、その完成に注力するのだ。

しかしこの生が終わることもまた彼らは知っている。(と思っている)彼らがその場合の死にどのような意味を与えているのか、僕は想像がつかないが、少なくとも思考不可能なものというようには考えていないだろう。

とはいえ死がなんらかの有限性を確定しているのは、反論の余地がないように思う。だがその有限のなかに忙しさはどのように介入しうのるだろうか?

死ぬまでにしようと思うことがもし多ければ、その生が忙しくなるのは確かだろう。50歳で死ぬ人が5種の言語を習得する場合と50歳で死ぬ人が1種の言語を習得する場合では、前者の方が多忙な生になるような気がする。

とはいえ、人は何歳で死ぬかわからない。ここがポイントだ。

どれほど高邁の精神を有した人であったとしても、5歳で死んでしまえば成せることはたかが知れている。たとえば5歳で起業したり、大学教授になることはまず不可能だからだ。

このような観点から人を見た時、彼は夢半ばで死んだと言われるかもしれない。マスコミでよく使われる表現だが、これはよくよく注意すべきだ。

彼の生は夢に従属していたと解釈されているからだ。前途洋々とか、明るい未来や、ライフスケジュールのような薄っぺらな言葉はどれも同じくある達成目標に従属した人間像を呈している。

先に書いたとおり、これらの前提はとうぶんは死なないという仮定と、人間は完成されるという二重の虚構のうえに成り立っている。この虚構のハシゴがいつ外されるのかに盲目なまま。

(もしくはそれをあえて見えないように隠しているか。)

もし人間がいつでも死にうる存在であり、永遠に完成されない存在だとしたらどうか?夢が叶うまえに死ぬかもしれないし、夢など永遠に叶わない飢えに満ちた存在だとしたら。

禅僧であればそれを満ちた状態だと教えるかもしれない。しかし「我足るを知る」と言う僧侶は、同時に飢えも知っているのではないか。悟りの虚しさは、悟り以前もまた知っているからである。悟りの瞬間に記憶が消去されるならまだしも。

もし僕らが禅僧に異を唱えたい欲求にかられるとしたら、僕ら自身の答えをつくらなければいけない。そのための一歩として、忙しいという観念を捨てる必要がある。

忙しさは死を前提としない、ないしさしあたり死なないと思っている者の言葉だからだ。逆に今即座に死ぬという観念もまた有害なだけである。それはあらゆる行為、思考や遊びまで含めたものを問題へと投げ込むからだ。

「明日死ぬとしてやりたいこと」は短期的な目標を要請する。そもそも死ぬという仮定自体、死を取り逃している。それを〇〇のようなものとして捉えているからだ。しかし、死はそのように捉えられるものではない。

文章が途切れるように、その先は誰も知らないし、知りえないなにかなのだ。

そのようなものを仮に想定するとして、忙しさとはどのように考え直せるのだろうか。

この地点に立つともはや忙しさが成立しなくなってしまう。あらゆる目標が空っぽになり、生はその意味を、終わりをたえず保留させられるからだ。

つまり、僕は忙しいかどうか判断をできなくなる。忙しいかどうかという基準が狂ってしまうのだ。不眠不休で動こうが、一日中布団に入っていようがどちらも等価に扱われることになる。

なぜ前者は忙しく、後者は暇にみえるごく自明なことが瓦解してしまうのだろう。もちろん先の仮定をとればという大前提があるのは確かだ。だがこの仮定をとると、なぜ忙しさが効力を失うのか。

もっとも単純な答えは、生が忙しさを支えているから。というものかもしれない。生があってこそ忙しさがありうるからだ。死んでなお忙しいということは考えられないから、概ね間違ってはいないと思う。

けれど僕は「忙しい」というとき、この上下関係が健全に働いていないように思う。「根本的には忙しくも暇でもないのだが、表面的には忙しい」とは言わないからだ。

ここに忙しさの興味深い特徴があるように思う。繁忙にあって、その下の層が見えなくなっているのだ。まるで凝固した揺るぎない大地のようなものの上にでもいるように、忙しさを絶対的なものと勘違いしてしまうのだ。

さらにこの忙しさは、ますます人の目を濁らせる。下手をするとこの忙しさを天上の価値のように祭り上げ、上ばかり見上げる人々が完成されるのだ。首が柔軟性を失い、前も後ろも喪失してしまうのだ。

労働に従属した人々の筋肉が硬直するのは偶然ではない。ある視野のなかに閉じこもるために最適な肉体が形成されているだけである。肉体が行動を制約されれば、自然と視野は狭まるし、逆にその身体から世界は再定義される。

上下の観念しか持てなくなった彼らは硬直した身体を激しく動かし、忙しいと騒ぎたてるのだ。もしくは暇だと。

ならば僕はこう言おう。「今の僕は暇でも忙しくもない。炎が燃え上がるように、それは絶えず自らを消費しつつ、消えることで次の燃焼を行う。それぞれの瞬間は流動し、変化し続ける。留まるものはなにもない。」

視界はつねに覆われ、そして開かれる。

忙しさとは留まることに他ならない。本質的な停滞、それこそが多忙の正体なのではないだろうか。