ところで、いい文章とはどんなものだろう。

よりいい文章 よりいい文章

よりいい文章

よりいい文章


ところで、いい文章とはどんなものだろう。

火の着いたトイレットペーパーのように書き上げた文章をアップするとすぐに友人から「なにが書いてあるのかわからない」と言われて、とても反省した。

もちろん僕は自分のために、もしくは痕跡のように文章を残しているのだから誰になんと言われようと知ったこっちゃないのだけど、伝わらないというのはよくない気がする。

言い訳をすると、この前書き上げた文章はできるだけ直裁的に、僕の思考をそのままトレースして、一切の手直しも読み返しもしないで上げることを望んでいたからそれでいいのだけど、やっぱり読めないと言われるのはまずい。

僕の目標は、読みやすく平易で誰でも読めるけれど、誰にも読めないような文章だから。

ワタアメのようにふわふわとしていて、食べる時はワクワクするのだけど、食べ始めたらなんだかよく分からなくなるような文章が理想とする姿なんだ。

普通こういう場合は理想とする文筆家がいて、真似て書いたりするんだと思うけど、今の僕にはそういう人がいない。村上春樹さんが好きだけど彼の玉虫色の文体をトレースするのはとても難しいし、そこまで好きじゃない。

かと言って、太宰のように書けば仰々しくなる。綿矢りさの文体は太宰を現代にアップデートしたようなものだけど、エッセイには向かない。

エッセイといえば清少納言がまっさきに浮かぶけれど、清少納言の文章を現代語化させるのは不可能に近い。

いちばん念頭に置いているのは村上龍さんの色のない文体だけど、彼の文章はいかにも硬い。

難しいね。

パスカルという人が「著者の思想を見出そうとしていた人が素直な文章に会うと、その書き手に出会って驚く」みたいなことを書いていたけれど、僕が目指すのはまさにその地点だ。

僕がここにいて、君がそこにいて、会話の空間がここに開かれるようなのって素敵だと思うんだ。けれどこれは“自分の”思うことをつらつらと書き綴るエッセイには向いていないのかもしれないな。

わかった!僕の書きたいのは擬似的なお喋りなんだ。

だけど、そうすると「ここ」に難しい問題がむくむくと立ち上がる。一人でお喋りはできないという難問だ。これは文章特有の受動性、読まれる性が働いているからいかんともならない。

お喋りはお互いに思うことを発言し合って(発言という、想いを言葉に変換するプロセスが醍醐味だ)、齟齬を埋めていったり逆に齟齬を拡大していったりする作業だけど、文章はせいぜい読者のことを念頭に置きながら書くしか手がない。

さっきはなんとなく読めない文章はよくないって思ったけど、今の観点からすると絶対にダメだ。

デリダじゃないけど、僕が書きたい文章は宛先のない手紙みたいなものかもしれない。宛先がないと届かいないのが郵便物だけど、ブログは宛先がなくても時たま届く。逆に言えば僕の意を超えて届いてしまうことがあるってこと。

それって素敵じゃないですか?そして今、君がこの文章を読んでるってすごくない???

もちろんそれがほんとに届いたかどうか、確かめる術はないんだけど気持ちが高鳴るなにかがある。

美味しそうな食べ物が運ばれてきた瞬間みたいに、まだそれがなんなのか分からないけれど、じんわりと喉から舌が潤うみたいな。英語だとsounds like deliciousみたいな。デザイン系の用語だと「シズル感」みたいな。

こういうときのこの「感じ」を上手に捕まえることができる人たちが文筆家と呼ばれるんじゃないかな。僕らがなにかにそっと触れているか、いないかのその界面、シャボン玉の虹色の表面をそのままにそっと包んで絡めとってしまう技術。

そうなりたいな。