Less is More(より少ないことは豊かである)はモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉で、Less is Bore(より少ないのは退屈)と返したのがポストモダン建築家のロバート・ヴェンチューリ。

装飾の無意味な愉しみ 装飾の無意味な愉しみ

装飾の無意味な愉しみ

装飾の無意味な愉しみ


Less is More(より少ないことは豊かである)はモダニズム建築家ミース・ファン・デル・ローエの言葉で、Less is Bore(より少ないのは退屈)と返したのがポストモダン建築家のロバート・ヴェンチューリ。

枯山水のようなことを考えてみるなら、形態が単純であることは多様な解釈ができるという意味で豊かかもしれないし、見飽きてしまうという意味でつまらないし退屈でもある。

レスイズモアと同時期に流行った考え方が、「形態は機能に従う」というバウハウス(ドイツの芸術学校)由来の機能主義だ。戦闘機が空気抵抗に反さない形であるように、あらゆるデザインもそのようであるべきだと考える。

たしかに戦闘機やロケットなどは機能に従っているようにみえるが、国際比較をしてみるとその多様性に驚かされる。そう、ある程度は同じ形でも細部が少し異なることでまったくの別物に見えてしまう。デザインを機能から算出するのには限界があるのだ。

逆に言えば、デザインにおいてデザイナーの趣向を隠すことはできないということである。この隠せなさ、まるではみ出すような部分を装飾と呼ぶなら、それは物の影のように対象から距離を置きつつも離れることがない。どれほど匿名的なデザインであっても、AppleはAppleっぽいし、無印良品は無印っぽいということだ。

中世の哲学者トマス・アクィナスの「本質」と「偶有性」という区別を少しだけ借りてこよう。

本質という言葉はもちろんプラトンの「イデア」から来ていて、あらゆる個別物のなかある普遍性のことである。
偶有性とはそれになくてもよいもの、たとえば靴であればその本質は足を守り歩きやすくするということであり、その色や素材は個々が偶然に持ち合わせた性質ということになる。

もちろん彼は筋金入りのクリスチャンだったから本質を重視する。それに対して偶有的なものは気まぐれ、懶惰、戯れであって、非本質的で、劣っている。

装飾もまた偶有的である。それは常に寄生してしか生きていけない、本質に対して副次的な位置しか占められない。

とはいえ少し考えてみるなら、殆どの物体には装飾があることに気がつく。むしろ装飾のないものは想像しにくい。無垢の壁はコンクリートのテクスチャと流し込みの跡、細かな石が混じっているだろうし、豹は迷彩を超えて審美的な模様を帯びている。
それらは意図的に装おうとして、そうしたのではないかもしれない。だがそれを眺め、味わい、触り、愉しむことでぼくらはそれを装飾にできる。

飾りがはじめから飾りとして作られる必要はないのだ。

バタイユというフランスの思想家の人が「花言葉」というエッセイでこう書いている。

花に関して、その象徴的な意味〔花言葉〕が必ずしもその機能から由来しているのではないことは、一目瞭然である。事実、たとえ人が愛を花によって表明するとしても、そうした欲求の記号となるのは有用な器官ではなくて、むしろ花冠なのだ。

とくに花は生殖器官(自然の合目的性)以外の場所が無意味に発達している。花弁は光合成をするわけでもないし、実のように種を運搬することもない。つまり形が機能から逸脱して、奇形化してしまっているのだ。

もちろん生物学的に花弁の有用性が明らかになるかもしれないから、ぼくらは差し当たりバタイユのように、人間にとっての意味(花言葉)はその目的から算出されたのではなくて、その装飾性にあると言うべきだろう。

非合理的であるという意味で装飾は不真面目だ。

浮ついていて、意味もないし価値もない。曖昧で、しかめっ面に舌をつきだしている。マネのオランピアのようにぼくらを見下し、そっけない態度をとる娼婦のようだ。それはたとえ金銭で買われても買いきれないことを知っている余裕であり、余白という概念がつねに冪乗され続けるように、装飾は波のように絶え間なく流動する。

この流動は概念では把握できない。戯れに舞う蝶がピンで刺されてしまうと化石になるように、標本にされた装飾は死んでしまうのだ。

これまでのことを含めてミースの言葉を思い起こすなら、Less is Moreのlessとmoreというのは、名詞ではなく、形容詞・副詞=装飾語だということが深い意味になって浮かび上がる。
それは今まさに削りつつあること、そして増大しつつあるという動きを表わしているのだ。このことをヴェンチューリは見逃していた。削りつつあるものは豊かだが、ただ少ないことは退屈に過ぎない。

装飾は温かなスープのようにその瞬間に味わい、愉しむことしかできないのである。さもなければそれは冷めてしまい、退屈に転じてしまう。

「装い」という言葉が演技と意味が重なるのはこのためだろう。それは続けられなければならないのである。装飾とはある時間の流れにあって、たゆたうように連続している。アニメーションの一コマがそれだけでは動かないように、それは連続することで魂(アニマ)を吹き込まれるのだ。非連続的なぼくら人間を連続性の世界へと誘うもの。それが装飾だ。

最後に装飾について多くを語ってくれた恩師の言葉を借りよう。

「驚く心」が生命の最高の瞬間である以上、それは、ある瞬間に思いがけずやってきて、私たちに「触れる」。そして、私たちが「触れる」ものでもある。      鶴岡真弓 『黄金と生命』