われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っているのである。  パスカル 『パンセ』断章183

箱のなか 箱のなか

箱のなか

箱のなか


われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っているのである。  パスカル 『パンセ』断章183

箱をあける時のわくわく。

をシュレディンガー博士が抱いていたかどうか定かではないが、箱には不思議な雰囲気がある。

箱と言えばAmazonは去年、日産とのプロモーションで新車を巨大なダンボールに入れて配達したという。記事(下記URL)によればその様子を幸運にも観た人々は何が入っているのだろう?と憶測を交わしたようだ。

巨大な段ボール箱がトレーラーで運ばれている。そんな光景を目にしたら誰だって、何が入っているのだろうと想像を巡らせずにはいられない。

じつはなにも入っていないかもしれないし、入っているかもしれない。そんな意味で箱は無から有を創りうる。AVなんかはそのパッケージで儲けていると言っても過言ではないし、香水のようにそのボトルに惹かれて買ってしまうものもあるだろう。

福袋に人々が群がるように、人は先の見えないものに期待する。――まるで雨乞いをするシャーマンのようだと思うのは僕だけだろうか。それはある程度、内容を予感させるだけで、ほんとうのところはその瞬間しか開示しない。

本質的に箱は暗示しかしないのだ。

ではほんとうに箱が暗示しかしかなかったら、つまり「カラ」だったらどうだろう?ある日、空っぽの段ボール箱が届いたら…

1.0(ワンポイント・オー)という映画はそんなシーンから始まる。(教えてくれたM君、ありがとね!)ディストピア風の近未来的ビルディングに住むプログラマーの部屋に空の段ボール箱が届くのだ。

なんと不気味で、魅惑的な冒頭だろう。この空の箱のせいで彼の日常は徐々に崩壊するのだが、気になる方は見て欲しい。資本主義社会を風刺的に描いたすこし難解な映画だ。

とはいえ私たちが空の箱を受け取ることはまずない。
それはいつも満たされており、運搬という役目を終えれば処分される。

だが、ハイデガーという人は、道具はその目的に従属するのを止めた瞬間にその存在を露わにするとか言っていた。

たとえば指の先を切ってしまったことを想像してほしい。(うぅ。痛い…)それまでなんの齟齬もなく動いていた指が、思うように動かせない。そればかりか指がズキズキと痛み自らを主張する。よくよく見るとその傷の周りだけ皮膚の凹凸がなくなり光っていたり、薄っすらと皮が剥がれていたり、今まで気がつかなかったことに気がつく。

指がその「目的」から剥離して「そのもの」として露わになる。

アメリカのポップアーティスト、アンディ・ウォーホルの作品《ブリロボックス》も同様のコンセプトを共有しているように思う。それはブリロという洗剤の箱を、別の立方体に描き直しただけのものだから、なかに洗剤を入れることはできないし、役にも立たない。他の箱のように暗示しないそれは意味も内容もなく、表面しかない。

私たちが慣れ親しんでいる箱は「開けられる可能性」があり、「中身が暗示」されていて、現に手が届く、つまり開けられるものである。

しかし開けられた箱(空の箱)もしくは、ブリロボックスのように開くという概念が欠如した箱(鍵がかかっているのではない)、つまり開く可能性が皆無である箱は、箱のようでありつつ箱とは呼べない「何か」になっている。

箱とは本来的には不気味(ドラクエのミミックみたいに)なのに、それが日常にあってそう思われていないだけではないだろうか。

この箱の不気味さを内側から描いた作品がCUBEという映画だと言えるかもしれない。

これは猟奇的サイコサスペンスで、複数の人間が巨大な箱(4m立方)に入れられたところからはじまる。その箱は上下左右に連結していて、それぞれのCUBEには殺人の罠が仕掛けられている。(罠がないCUBEもある)

物語のプロットはその箱の連結体から脱出できるか?というものだが、この物語の特徴はこのCUBEが全く説明されないことにある。人々がなぜここに入れられたのか、そして外界はどうなっているのか、なぜ作られたのかもわからない。

ただ、不条理に箱に閉じ込められ、殺されるだけの物語。

この映画をたんにグロ映画として見てもよいのだが、連結したCUBEは個体のメタファーであるとも見れる。人間は区切られた器官をもち、その連続体として生きている。もちろんそこから出ることはできない。

そして他人の死を見ることはあっても、自分の死を体験するわけにはいかない。死ぬかもしれないとは思うが、本当に死ぬかどうか確かめる術もない。

私たちはそれぞれが、CUBEという個体に隔離されているのだ。外へはでられない。開かない箱。開きえない、開くという観念の欠如した箱のなかにとじ込められている。

だが、私たちはこの運命に逆らおうとするかもしれない。

それはなにも壮大な野望ではない。誰かとの挨拶、抱擁、戯れ、日々行っていることのうちに潜んでいて、むしろ偶然に到来する。ある瞬間に脱出してしまうことがあるのだ。いや、正確には超えてしまったかもしれないと後から思いなすのだ。あれは超越だったとあとから気がつく。

これを常にしている人間を子どもと呼ぶのだろう。

それはたぶん、サン=テグジュペリが星の王子さまに箱を描いてあげて、「きみの欲しい羊は中にいるよ。」と言ったときに王子さまがぱっと顔を明るくしたのと同じだ。

子どもには箱の内側が見えてしまう。

けれどもぼくは、不幸にして、箱の中に羊を見ることができない。ぼくもちょっとばかり、おとなたちみたいなのかもしれない。   サン=テグジュペリ『星の王子さま』

http://www.dailymail.co.uk/news/article-2535670/Is-largest-item-shipped-Amazon-Lucky-car-buyer-receives-new-16-000-Nissan-Versa-Note-straight-box.html