入院して一週間がすぎた。相変わらず、憂鬱な日々が続いている。 とはいえ、環境が変化してきているとも感じる。

コミュニティ コミュニティ

コミュニティ

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入院して一週間がすぎた。相変わらず、憂鬱な日々が続いている。

とはいえ、環境が変化してきているとも感じる。

まずコミニティの形成。これにはタバコが役に立った。タバコを吸う患者さんと外出時間になったら、一緒にでて一服する。ただこれだけでも、いろいろな情報交換ができる。

そのつながりを突破口に、他の患者さんたちとご飯を食べる。もちろん監視されているわけだけど、あの先生は…とかあの職員さんはとか、本来は禁止されているのだが時に食事の交換などもされる。

社会学の授業を思い出さずにはいられない。

僕の大学の社会学の授業はすごく変わっていた。前期は社会学の外観で、後期はマイノリティについての講義だった。主にエスニシティに関して、映画などを通しながら学んだ。

その先生が当事者だったということもあり、いささか固執的な感じもあったけど、なにより社会学がそういうサバイバルの武器として、実際に運用されているのを目の当たりにしてドキドキしたのを覚えている。

そのとき、マイノリティに必要なものは?とアンケートがされ、僕は「生き延びるための最低限のコミュニティと、学ぶこと」と書いて提出したら、褒められ「もっと学ぶことの内実について詳しく書いて欲しかった」と言われて、照れたのを思い出す。

でも今ならその答えを出せるような気がしている。

まずコミュニティとは単純な「交換」と「コミュニケーション」が主になされる社会集団であるとしよう。

この両者が惹起するのは、「価値」と呼ばれるものである。つまり、ある人物が持っているなにかはその人物がただ保持しているだけで価値はない。それは他人が欲望する限りにおいて、価値を持つからだ。

そしてある人物が、例えば僕がコミュニティに入るときになにをしたかと言うと、それは贈与であった。ほんとうはルール違反なのだが、外に出られない人のためにお菓子をプレゼントしたのである。

その人はお礼にと言って、咳をしていた僕にのど飴をくれた。今度は僕がフルーツをという具合に贈与の体系が生じる。これがもっとも原始的な経済体系であろう。

そこに付随するのがコミュニケーションである。あなたに敵意はなく、同じコミュニティを維持したいと、なんらかの形で伝える。それがお互いに承認されると今度はニックネームで呼び合ったり、気軽な挨拶を交わすようになる。

僕も「きのっぴぃ」と呼ばれるようになった。

挨拶とは、第一に「あなたはそこにいる」ことを意味する。例えば、見ず知らずの人々とぎゅうぎゅうのエレベーターに乗ったときのことを考えてもらいたい。あなたは、その全員に挨拶するだろうか?しないだろう。これを社会学の用語で「儀礼的無関心」と呼ぶが、本当はそこに人がいるのに、いないものとして扱うのである。

学校での陰湿ないじめも同様だ。“いじり”や“ちょっかい”のような積極的ないじめはその人物の存在を強調する。しかし「無視」はその人を居ないものとして、つまり人格をもった人間としてではなく、物として扱うことである。

つまり、挨拶は「無視していませんよ」という最初のメッセージである。

そこに名前が加わると、「あなたを、他の人ではなくあなたとして認めていますよ」というメッセージになる。この「他人ではなく」というのは重要だ。

挨拶は内集団(仲間うち)で交わされるが、必ずしも挨拶する相手の名前を知っているとは限らない。同じ制服を着ているとか、同じ場所にいるとかいう理由からもなされる。

挨拶は確かにその人の存在を認めるが、それは無人称に留まる。そこに名前が加わることによって、その人物の個性が認められるのだ。(ちなみに個性とは、誰かがもっている特徴ではなく、その人物が「個」であるという性質のことである。)

僕は一週間かけて、やっと「個人」として認めてもらえたことになる。

個人として認めてもらうとは、僕が僕であると認めてもらうことである。この認めてもらうということと、自分で自意識を持っているのはだいぶ違う。

自意識は内省によって得られる自我像だが、個人とは他者を鏡のようにして自分を写すことによって得られる自我像だからだ。

この2つの自我像のを重ね合わせて初めて自己が自己足りうる。やっと僕はこの段階に達したようだ。

ここから問題になるのは、この2つ自我像のズレと重なりだがそれはまた別の機会に。