なにをするんだろう?

考える。 考える。

考える。

考える。


なにをするんだろう?
「大学院に行ってなにをするの?」と君から無心に尋ねられて、ぼくはとてもこまった。


とりあえず、哲学のようなものがしたいとぼくは答えた。すると君は哲学ってなんの役に立つの?と容赦ない。哲学とはなんなのだろう。

さしあたって、哲学はなんの役にも立たないんだと答えたような気がする。

例えば、「科学」や「数学」のような考え方は二千年くらい前の人たちが考えだしたもので、というのは哲学の発生は人々がムラから出て交流するようになって、それまでそのムラに固有だった信仰に代わる世の理(ロゴス)を探す旅のようなものだったから。

その旅の中で、それまで神や悪魔の仕業だと思われていたことを、別の角度からより普遍的に展開したのが哲学。今の言葉で言えばそれは「科学」になるのだけれど、その礎の上に僕たちはいて、もし哲学をする意味があるとすれば二千年くらい後にならないとわからないのかな。

けれど、この哲学の元々の意味はPhilosophy、つまりphilo(愛)とsophy(知)という言葉から成り立っていて、知識を愛するということでもあるんだ。

ここまでくると、先ほどの問いは「愛する」ってなんの役に立つの?という疑問に変換されてしまう。するとたぶん、この問いがあまり意味をなさないことに気がついてもらえると思う。

君も知っての通り、「愛すること」と「有用性」はあまり相性がよくないから。


別の角度から。

哲学が役に立つとしたらそれは社会の歪みに文句を言うというのもあると思う。

たとえばミシェル・フーコーという人は現代の人間の性は19世紀ごろから、抑圧されるようになった。と言ったし、それをバトラーという人がより政治化して性的な差別を解体しようとした。

だから今で言うジェンダーの問題みたいのは、哲学者によって示されたということになる。少し前、大正時代までなら女性に政治的な権利がないのは当たり前で誰も疑わなかったし、今の日本だって雇用に格差がある。

それを「自然」とするか、「不自然」とするかはさしあたり置いておくにしても、どうなの?と問いかけてみる必要はあるんじゃないかな。

ハイデガーという人なら、もう少し深いレベルから人を批判しているかもしれない。まず人間とか、自分とか私とか言われているものを「現存在」という「いま、ここにいるもの(たとえばぼくはいまここにいる)」という曖昧な括りから出発させて、それを「道具的存在」という金槌やボールペンとは違うよね?という問いを立てて、だとしたら「現存在」にはそれなりの“あり方”があるんじゃない?みたいな。

最初の本格的な(?)哲学者と言われるソクラテスに至っては、ヤクザの因縁づけみたいなことをしている。

彼はある時、デルポイのアポロン神殿で「お前はもっとも賢い」と神託を受けて(この時点でちょっと意味がわからない)神の言うこととはいえ、ほんとうに自分が賢いか疑ってみようと思いたち、当時の政治化や思想家のところへ出向いてはその教義にケチを付けて歩いた。それが後にプラトンという人によってまとめられたのが〈対話篇〉と呼ばれる本になる。

みたいな。

つまり哲学者は、世の中で前提とされていたり、そもそもそのような前提としてさえ捉えられていないことに問いを立てる人とも言える。

けれども、それがなぜ行われるかと言うと、社会のためとかとも言えるけれど、語源的にはやっぱり知への愛ゆえである。

だから哲学者は疎とまれる。政治家がなにかしようとすれば、資本家が、教育者がなにかすればケチをつけるからね。当の人たちからすれば、迷惑な蝿のようなものということになる。役立たずってわけだ。

そう言われると、じゃ「役に立つってなによ?」とか言いたくなっちゃうけど。


テレビのニュースを見ていた母親が「つまらない。もっとまともな番組を作ればいいのに」と言っていた。けれど、ぼくに言わせれば〈ニュース〉なんてどれも大差ない。

だいたい〈新しい〉という理由だけで綴られる物になぜ価値が有るのかわからない。

どこかで誰かが殺されたとか、政治がどうしたとか、「で?」と思ってしまう。そう母親に言ったら、「例えば中国の大気汚染が日本にまでやってきて、それで健康を害すると知ってもそれは無意味か?」と聞かれて、やっぱり無意味だと思った。

そんなのは「明日、隕石群が降ってくるかもよ」くらいの空虚さにしか響かない。もっと言えば、「明日死ぬかもよ」と言われるくらい意味が無い。(死ほど無意味なことはない。)

もちろんそんなぼくだって、マイナンバー制度には反対だし、表現規制にも反対だし、TPPや安全保障法案だって推進すべきじゃないと思っている。なぜなら…と理由を続けてもいいけど、うまい具合に歯車が噛み合わないんだ。

そうだな。たとえば小説のなかの主人公が大成功しても、現実世界にはなんの影響もない。けれど、ぼくは現実世界でもその主人公のように振る舞いたいと思うかもしれない。逆に現実世界でぼくが死んでも、小説の中の主人公は生きているようなものかもしれない。

どちらもそれなりに興味深くはある。そして、どちらも同じくらいに無意味で愉快で、お互いに噛み合わないものだ。

けれど、もし子どもがゲームばかりしてマンガばかり読んでいたら親は怒る。「そんな無駄なことをするんじゃありません!」でもぼくは思う。「明日死ぬと分かってても同じことが言える?」って。

ぼくにとって意味の有ることは、“明日死ぬと知っててもそれをせずにはいられない”ことかな。

でもこう言うと、大人の人たちは山のような大義名分を浴びせかけてくるから、すぐにこんなふうに譲歩しないといけない。“あくまでこの仮定をとるなら”ってね。

そしてぼくがこの仮定をとった時だけ、ぼくにとって意味あることが変わるんだ。

なにか得体の知れないものが忍び込んでくると言ってもいいし、なにかがひっくりかえってしまうと言ってもいい。いずれにしても、ぼくはいつもこのダブルスタンダードの間で右往左往している。


仮にこの右往左往とすることを哲学と呼んでみたくなるときもある。

知を愛するとして、愛するって、相手のこともあるからどんな時でも右往左往している。自分がほんとうに愛しているのかわからないし、愛ってなにかもわからない。けれどそのまわりをウロウロとしないと居ても立ってもいられない。

ふとした瞬間になにか垣間見た気がするんだけど、すぐにまた見えなくなってしまう。だからまた右往左往する。

前進しているのか、後退しているのかもわからないし、自分がどこにいるのかも分からないばかりか、自分さえなんだかわからない。

そんな霧のようななかで住するところがなくて、絶えず動き回っている感じ。

そうするとやっぱりそれを「考えている」とか「哲学している」とか言うのは違う気がしてくる。戸惑っているとか、困っているとかもっとファジーな言葉の方が正確だ。

けれど、あまりにファジーな言葉を使うと、それはそれでなにかを取り落としてる気がする。


そんなことを「考える」って言葉にすると、ぐっとなにかが変わってしまう。

例えば会社の業績不振の理由を“考える”と、愛の意味を“考える”ではなにか違う。前者は情報さえ精確なら論理的な計算で求められるけれど、後者はそうはいかない。前者はうまくすれば自動的に答えが出せるけど、後者は受身形だ。

考えるって受身の場合もあるとおもう。

ぼくはなんで生きているんだろう?と考えるときは、“よし考えてやろう!”と“予め考えてから”はじめられない。いや、予め考えてから始めることもできる。けれどそれをし始めると、いつまでも“予め考えないと考えられない”ことになってしまうから、考えるということが破綻する。

じゃあ考える前ってなんだろう?と考えてみる。

考える前があるとすれば、それを考えてはいけない。あれ?どうしたらよいのだろう?こうしてぼくは躓いて、たちどまって例のウロウロを始める。

考えるってことは、自分ではじめたり終えたりできるものじゃない気がしてくる。

気が付くとこんなふうに考え始めているし、気が付くともうなにも見えなかったり、忘れたり、見えるようになってたりする。

でも見えるってことはなにかが(たとえば空気とか、窓ガラスとか)見えないことでもあるから、用心しないといけない。とかまた考えている。

「考える」って言葉がいけないのかもしれない。気がつくとか、思うとか、感じるとか?

ソクラテスの無知の知が、無知であることを「知って」いるのではなくて、無知だろうと感じたり、疑ったりするその態度のことであるように、ぼくのしたいのも態度なのかなって思う。

なんかそんな気がしてきたなぁ。自然への態度?それとも自分への?

うーん。やっぱり違うな。わからん。いっつもわかんない。

けれど、こうやって3千字くらい書くと、なにか分かったような気もするから不思議ね。もし君になにが?って言われると答えに窮するけれど。
  1. 逆に哲学が大いに役に立つ時代は歪みの大きい時代なのかもね!

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  2. うん。そう思う。ブレヒトが「 英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。」と言っていたね。

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