ようやく、臆面なしに文章を書くのが「好き」と言える気がする。(けれど明日にはきっともう言えない。)

好きの意味 好きの意味

好きの意味

好きの意味

ようやく、臆面なしに文章を書くのが「好き」と言える気がする。(けれど明日にはきっともう言えない。)

基本的に好きな事も、物もなかった。

思い出すかぎり最初の趣味は、なにかを作ることだった。幼稚園のころにはカッターナイフを使ってなにか作っていたし、それを誤って太腿に突き刺した傷跡は未だに残っている。

とにかく手を動かすことが好きで、幼稚園ではタイムマシンを作ろうとしていたらしい。バックトゥザフューチャーが好きだったんだ。

すこし利口になると、タイムマシンは作れないことが判明して、僕の趣味は手品になった。

小学生くらいの時だと思う。手品が素敵だったのは、現実から乖離できたからだ。天文学的な偶然をその場で演じてみせることも、物理的な制約もすべて破棄することができた。

この趣味は高専くらいまでずっと続いたけれど、徐々に心が冷めている自分にも気がついていた。手品のタネを作って売ったりもしたけれど、手品のようなちゃちな“ごまかし”で現実に介入することの限界を感じていた。

それにとって変わるように僕の心を捉えたのは、心理学だった。特にユングの教えはこの世界の真理を説いているように思われたし、現実的な妥当性も備えていた。けれどそれについて学ぶにつれて、それが実は現実的な支配力を持っていることを理解した。

現実的な支配力というのは、現実に介入できて、改変できるということだけれど、それは人を傷つけられるという意味でもあった。

僕のような人間には少し重すぎる道具だった。それには手品のような軽さも、非-有用性もなくて、役に立ちすぎるのだった。

次に目が向いたのは芸術だったけれど、それも少しすると変な重みをもっていることに気がついた。

この“変な重み”というのは、現実世界でそれが占める〈位置〉と言い直せるかもしれない。たしかに「芸術は生活にとって不要だ」と人は言う。そう言いつつ、人が作ったもので美を欠いたものはない。

人はあらゆるものに美を見いだせるから、逆に芸術はそれを否定しようとやっきになっているようだった。現代芸術が複雑怪奇な様相と言葉で身を固めて、身動きがとれなくなってしまっているのがなによりの証左だろう。

そうして僕にとって興味のわくものはほとんどなくなってしまった。むしろ、そんなことは随分と小さいころから分かっていた。

工作にしても、手品にしても、心理学にしてもデザイン(高専の時に学んでいた)にしても、どれも宇宙レベルで考えれば、もしくは僕が死んでしまえば、無いも同然であり、脆すぎた。

この虚無感は常に僕の熱狂に水を差すのだ。

昔はあれほどあった夢も欲望も、どれもこの虚無感に侵蝕され尽くされて、いつの間にか、ただその侵蝕と闘うだけの日々になっていた。

(僕は、太宰治のトカトントンを思い出す。)

全てが無意味だとか、シラケるというような分かりやすいものではない。それは熱狂を持続させ、スリルを味あわせたその道の裏面にびっしりと生えているのだ。

レヴィナスじゃないけれど、それは“虚無として充満”するという逆説。人は無いものについて考えることも感じることもできないから、それは迫ってきたり、気が付くと全身にカビのように生えている。

大人はそんなカビを気にしない。

まるで体中に繁殖しているカビやダニを知らぬふりして、キスを交わすカップルのようなものだ。

いちいちそんなことを考えていたり、立ち止まっていたら生きていけない。一度でも未来への歩みを止めれば、あらゆるものが不透明すぎて、もしくは鮮明すぎて気持ち悪くなってしまう。自分の身体でさえ吐き出してしまいたくなる。

それは死にたいという欲望と似ているから、自殺する人もでてくる。

けれどもう少しその耐え切れなさの中に身を浸していると、もしくは死に切れないでいると、それが死への欲望ではないことに気がつく。

むしろ生きたいがゆえの、快楽を欲望するがゆえの居た堪れなさなのだ。

けれどその欲望に耐え切れず、もしくはなんらかの環境要因によって頭が混乱をきたすと、それが死への欲望であると錯覚してしまうのだ。

死は生への安易な解法であるとは言わないまでも、ある種の狂気によってのみ捉えうるものだと考えるべきだ。なぜなら、死などという言葉はあってもその対象はどこにも「無い」から。

あるものはあり、ないものはない。とはパルメニデスの語だが、理性的に言えばその通りだから。

ゆえにもし「死を欲望する」と言う人がいれば、それは言葉を選び間違えているか、狂っているかのどちらかであるし、極言すれば「死にうる」という観念さえ、誤謬だ。

僕は死ぬかもしれないが、死ぬとは言い切れない。

このような考えができるようになったのは、最近のことである。それは世で哲学とか呼ばれるものを好きになったからかもしれないし、こうして言葉にしているからかもしれない。

言葉にしてみると、見えなかったことが見えるようになる。なんてことは全く無い。

なにも進展しないし、気持ちが楽になるわけでもなければ、お金が入ってくるわけでもない。ではなぜ言葉にするのだろう?それだけの価値があるとはとても思えないのに。

もし理由があるとすれば、理由がなさそうだし、理由がありそうだからだと思う。

このところ好んで読むバタイユならそれを〈賭け〉と呼ぶのかもしれない。おおむね、結果はわかっていても素知らぬふりして賭してみる。なにを賭けているのかも、わからないまま。

好きってそんなことかもね。