年賀状なんて、郵政公社が作り上げた搾取のためのイデオロギーに過ぎないし、福袋や初売りだってそんなもの。セールスマンは「おめでとうございます!」と言いながら、ほんとは黙して語らぬただのロボット。
ヘタすればお正月という行事だって、年に一度だからとかこつけて、さして会いたくもない親戚一同集め、表面だけの取り繕い、ついに耐え切れずお酒なんか呑んだりして、つまらないテレビで時間を潰す。
もっと悪ければ「お正月こそ一年の始まり」であり「一年で最も重要な日だ」なんて、なんの疑いも持たずに浮かれて浪費し怠惰を自分に許したり、あえて初日の出なんか拝んじゃって自己達成感?みたいな。
と思う僕と、そうでもない僕がいるから困る。
元日には少し遠い天満様までお参りして、その帰りには氏神様にもお参りだ。お屠蘇は大好きだし、おせちの栗きんとんなんて、あの黄金色を見るだけで垂涎する。
ご多分にもれず、年賀のLINEやメールもする。
ある時から年賀状は馬鹿らしくて止めてしまったのだけれど、メールくらいではお祝いしようと思うのだ。
疎遠な人に連絡するのに恰好のチャンスだからね。とはいえ、ある友人に新年の挨拶をしようと思ったら、その前の連絡が去年の挨拶だったりするから、ほんとに形式でしかないこともある。
しかたなくて、お元気ですか?なんて書いたりする。「おめでたい」なんて全く思ってないのに。
けれどもそれが「形」という隠れ蓑をまとって、別の内容へ変わったりするから面白い。
普段のお辞儀だって、機械的で無意味なこともあるし、泣けるような想いを込めて頭を垂れることもあるように、形にはいろいろな内容を込められるからね。たとえ伝わらなくても。
マックの店員さんがやたらと感情的に挨拶してきたら困るし、形式的な挨拶であったのに無視されると腹が立ったりするように、形と内容をきっかり分けようとすると意外と難しい。
…
とはいえ、「新年」という考え方はちょっとよくわからない。
時間の単位であるところの「年」が「新しく」なるってどういうことよ?いや、そもそも、年とは時間の単位なのかすら怪しい。
そんな疑念から、「新年とは」とグーグル検索してみた。
するとWikipediaがすぐにヒットした。いわく、太陽歴を使用している文化圏において1月1日が新年にあたるのは、グレゴリオ暦において新年=1月1日であると定められたからだと言う。
トートロジーじゃないか!
他の新年を挙げるなら、中国などの太陰暦由来の新年、別名「旧正月」をもつ文化もあるし、それ以外にも新年をグレゴリオ暦換算で4月や8月にやる文化圏もあると書いてあった。
とはいえ、この相対性をもってして新年を無根拠だと言うにはちょっと無理がある気がする。一年というスパンはなんだかしっくりきすぎる。
この感じに理由がつけたくて本をパラパラしていたら、鶴岡真弓著『黄金と生命』に以下のようなことが書いてあった。
「狩猟採集生活においては「時間(季節の推移等)」が生み出した成果(獲物等の自然の産物)を、利用することが重要であり、ヒトは時間の流れに、積極的に干渉することはなかった。」
しかし農耕革命以後は人が時間に干渉するようなる。
「それゆえ農耕は、「生命の時間の自然な流れ(正常遷移系列)」を、一時的に「停滞させる技術(焼畑による作物の耕作期間は、五年程度が限界である)として生み出された。」
彼女の言葉を借りればそれまで時間の「観客」であったヒトが「参加者」になったらしい。
この参加者というのは、例えばハウス栽培のような農耕作業がそれまで自然の側にあった運動に人間が介入することを指している。
なるほど。なるほど。人は自然の時間に干渉できるのか。でも、ちょっと待ってという声がどこからか聞こえる。じゃあ時計で表される時間はどうなのかと。時間というのは、少なくともある次元を持っていて、人間が干渉できるようなものじゃないはずだ。
さっきの引用だって、その客観的な「時間次元」のなかのことであって、客観的な時間は変えられないじゃないか。その観点からすれば、やっぱり新年なんて馬鹿げてる。って具合だ。
でも、ほんとに客観的な時間なんてあるのかな。川のように流れていく時間。
僕が死んでも世界(そして時間)は続くだろうという予感と、まるでディスプレイを消したみたいに一瞬光って消えてしまう気もする。
…
僕が死んでも君は生きているだろうし、君が死んでも僕は生きているかもしれない。そう考えると、やっぱり時間のようなものがいるのかな。
けれど、僕も君も死んでしまったら?いや、地球上全ての人が死んでしまったら?それでも時間はあるのかな。
わかんないね。
だからきっと、形式があるんじゃないかな。新年とか誕生日とか、お辞儀とか。上辺だけ取り繕って、笑ってみせて。
ほんとのところは…
動画ありがとう!すごく面白かった!僕も今度から、動画入れようかな。
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