入院4日目、しだいに自分の輪郭線がはっきりとしてきた。 僕の一日はこんな感じだ。朝6時起床、7時半に病院食を絵に描いたような代物(生ぬるい上澄みのような味噌汁、芯まで冷え切ったおひたし、生臭いヨーグルトにカロリー合わせのための大量の白米)が出される。9時半になるま...

輪郭線 輪郭線

輪郭線

輪郭線


入院4日目、しだいに自分の輪郭線がはっきりとしてきた。

僕の一日はこんな感じだ。朝6時起床、7時半に病院食を絵に描いたような代物(生ぬるい上澄みのような味噌汁、芯まで冷え切ったおひたし、生臭いヨーグルトにカロリー合わせのための大量の白米)が出される。9時半になるまで外出禁止。12時に昼食がでて18時に夕食。消灯は21時。


健康的な生活だろうか?確かに、食を我慢すれば悪くないように思われる。だが、そうは問屋がおろさないのが世間だ。

まずこれにマイノリティへの不平等が加わる。というのは、僕がアレルギーもちであるのを知りつつ、食べられないメニューが提供されるのだ。(それも有料で!)もちろん、その件に関しては入院前に話している。

しかし数品言い忘れたところ、入院時での申告以外を受け付けることはできない。と、お役所でさえ驚愕の強硬姿勢。そう告げてきた看護師に「それは病院がアレルギーにたいして配慮しないということですか?」と、わざと言ってみたところ、医者との相談ということになった。

それまで食べられないものが配膳されるのだろう。もちろんすでに配慮しているわけだから、彼は僕に対して「すでに十善を尽くしています」と言えばよかったのだが、彼は心優しかったのだ。

食べられないものが出た時は缶詰を開けることになるから、まさに缶詰生活の到来だ。(笑えない)

これに加えて、一時間ごとの巡回が強迫的である。僕は個室に入っているから、まずノックがされ、ドアを開けられ、声をかけられる。何をしていても応えなければならない。

時間は概ね決まっているが不定期だから、構えようとして構えられるものではない。

ようこそ監獄の誕生。

最初は“いい刺激”程度に思われたが、眠っている間にドアをガタゴトと開けて巡回するのは頂けない。これで睡眠障害が改善されるとはとても思えないのは僕だけだろうか。それともこれは、うるさい環境でも寝るための暴露療法なのだろうか?

そこで、僕はドアを開放しておくことを思いついた。はじめから視線が交差する状況を作り出してしまえば、まなざしの対称性を維持できるからだ。巡回が来ることは事前にわかるし、彼らは僕を一瞥すればいい。

なんて素敵なアイデアだろうと思ったのも束の間。彼らの一人が、夜は閉めてもらうと言い始めた。このとき、僕は彼らの状態についてある理解を得た。

それは、彼らが無意識にサディズムを味わっているであろうことだ。

サディズムなんて古めかしい言い方で、僕も気乗りしないのだが、少なくともそう書かざるをえない衝動があるように思う。

僕が「開け閉めがうるさいから開けているのです」と説明すると、「静かに開け閉めしています」と平行線なことを言い出す始末だったのだ。それでもうるさいのだから、今夜だけ試してくれと言ったら渋々、承諾したようだった。

理由が考えられるとすれば、慣習に反するというものかもしれない。「大人というのは、たった一人ではなにも考えられない」という星の王子さまの一片が思い出されるようだ。

それにしても、まるで閉めておきたい理由でもあるかのようだった。

いや、より正確にこう書くべきだろうか、“まるで、閉めておいて開けたい”かのようだったと。

ここにバタイユ的な「侵犯」の欲求を見出す以外に、彼らの行動をどう説明すればいいのだろう?勝手に出歩かないようになら鍵を閉めればいいし、いびきがうるさいならそう言えばいい。他の患者が不快感を抱いたのであれば、そう言えば良い。だが、そういった説明はいっさい受けなかった。

このときに思い出したのはスタンフォード大学の監獄実験であった。(僕はこれを『es』という映画で知ったのだが、知らない方のために説明すると、心理実験として20人ほどのグループを看取役と受刑者役にわけ、刑務所と同様の状況で演じさせたところ、看取はよりサディスティックに支配的になり、受刑者はそれに迎合し、それが過度にエスカレートし実験中止になった。)

この実験の重要な点は、人は自らの役割を知らない間に内面化するということだ。つまり患者はより患者らしく、看護師はより看護師らしくなるということである。

支配者はその与えられた権力を自らのものだと思い込み、全能感を味わう。それに対して、被支配者は奪われた権力がまるで初めから自分にはなかったかのように卑下する。

演技であったものが自己認知までをも書き換えてしまうのだ。だとすれば、僕は(『es』の主人公のように記録を取り続けて)常に自らのアイデンティティを自分で再定義する必要がある。

しかしその一環としての解放作戦は、僕からトイレ以外のプライベートを奪い去った。それでも、侵犯の不快感に比べれば遥かにマシな選択だと言わざるをえない。

レイプされるよりも、乱交の方がマシなのと同じだ。

このような悲観的な解釈をすべきではないのかもしれない。彼ら一人一人はとても善き人々であるし、医師もまた常識的な人間であろう。それを信頼すべきなのかもしれない。とはいえ、人はよくも悪くも社会的な役割を内面化して生きている。それは彼らが人間から非人間的なものへと往復しているということだ。

もし彼らでさえ意識していない権力による嗜虐があるとすれば、僕は自身をそれから防衛しなければならない。そしてこの拒否反応がなくなる日が恐ろしい。

ひとつ面白かったのは他の患者さんが、部屋の外から話しかけてくれるようになったことだ。これはじつに面白い。病院がもつ支配と所有の「ツリー構造」とは違ったシステムが“非合法に”介入してきている証だからだ。

たった一つの会話をもってして言い過ぎだろうか?たしかにそうかもしれない。しかし、そう思われるようになったのだから仕方ない。

これが日々、自分の輪郭線を強く感じる所以である。自分の感受性、思想、行動…それらが他のものとの摩擦によって、かたどられるのだ。

入院時に部屋の乾燥に喉をやられ今もまだ微熱が続いている。頭痛がひどく、意識は朦朧としているし、メシは味気なく、時に食べられないものがでる。外出は制限されており、病棟内は監視ネットワークがはびこっている。

まるで白昼夢でも見ている気分だ。この入院によって生活は健全化されるのだろうか。もしされるとすれば、それは実戦で闘う術を身につけることに他ならないだろう。

だがもしそのように獲得されるものがあるとすれば、それは一般的なものへ抗う戦闘技術に他ならない。

自分の輪郭をつよく感じる。
  1. 片道一車線10台の車が渋滞。道は湾曲して先は見えない。

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  2. コメントありがとう!
    僕はいま、そんな気分かも…
    でも、そんな気分だとしたら、それは前に進もうとしているからなのかも。

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