入院生活は、想定よりも遥かに厳しい状況を呈していた。

かすかなもの かすかなもの

かすかなもの

かすかなもの


入院生活は、想定よりも遥かに厳しい状況を呈していた。


そのあたりのことについては、前の投稿に詳しいのでそちらを見ていただければと思う。

巡回や外出規制などの管理も辛かったが、加えて風邪と思しき発熱、そこからの息苦しさが追い打ちをかけていた。頭は朦朧とするが、勉強しなくてはと恐怖に駆られ、本を読むが手に付かない。これからの日程についても、心の通わない医師との相談によると冷たい。

ほんとうに落ち込んでいる。メンタルの面のみでいえば、むしろこれよりも落ちていた時期があるのでまだ苦笑できる。だが“被監視”という屈辱と自分の矮小さ、両親への負担などについて考えが、脳を先の丸まったスプーンでかき混ぜるように襲ってくるのにはお手上げだった。

それで、僕は熱で震える手でもって何をしているのかといえば、キーボードを叩いているのだ。馬鹿げている。いま、こう書きながら自分でも笑っている。安静にしていればいいものを、PCに向かっているのだ。(このPCを僕にくれたHさんになんと感謝すればよいだろう。ありがとう。)

ここまで執拗に文章を書いたことがあるだろうか。僕は嬉しいのだ。その内容は大したものではないのは自分でもわかっている。しかし、こんな状況であってそれでも文章を書きたい自分が誇らしいのだ。

ある友人が僕を評して「コウモリ」のようだと言ってくれた。と、前にカウンセラーさんに言ったら、彼女はコウモリの逸話を知らなかったので、簡単に説明しよう。

グリム童話に収められた「卑怯なコウモリ」という逸話だ。あるとき、四足の獣と鳥が戦争をしていた。コウモリは獣が有利になれば、自分の四足を示して獣の仲間をし、鳥が有利であれば自分の翼を見せてとりいった。長きに渡る戦争が終結すると、コウモリは獣からも鳥からも裏切り者として扱われ、夜の暗い洞窟に住むようになった。という話だ。

僕は、デザインを勉強した後、美術を勉強し、それから今度は哲学をしたいとのたまってこの様だからだ。自分がしたいことが分からなかったのだ。その時々は、それぞれに真剣に打ち込んでいたが、それでもなんとなく自分が二重になっているような気がしていた。

妥協すべきであることはよくわかっている。妥協して就活をすればいいのだ。その思いは、首筋に押し付けられた冷ややかな刃物のように僕を圧迫する。

この圧迫によって始めた就活は途中でドロップアウトし、バイトも蹴っ飛ばして辞めてしまった。なんて不器用なのだろう。もしくは異常なのかもしれない。それともただの“あまちゃん”なのか。(最後のが一番、しっくりくる。)

良くも悪くも、この状況を維持できる状況にあるのだ。

それを友人がコウモリのようだと言ってくれた。彼がそれをどういう意味で言ってくれたのかはわからないけど、たぶんポジティブに言ってくれたのであろう。君にはコウモリというポジションがあるじゃないかと。

コウモリに獣の魂と鳥の魂が宿っているのだとしたら、なんて素敵だろう。

少し熱もあるんだから、少し間抜けに書いても、読者諸兄にあっては寛大に許していただきたい。

太宰の晩年の冒頭は、ヴェルレーヌの「選ばれてあることの恍惚と不安と、ふたつ我にあり」という文で飾られている。僕がこの言葉に出会った時の感動を今も思い出す。

正直に書こう。それに憧れたのだ。僕は選ばれてあると、思いたかったのだ。だが次第にその意識が薄れているのは言うまでもない。とはいえ、今度は別の角度から選ばれているとも思う。

というのは、レヴィナスがはっきりと明言しているように、神のような絶対存在の前にあって私たちは、全員が選ばれているのだ。神の前に召喚されているのだ。

先日、イスラムの教会でもこの感じはあった。ムスリムの友人と拝礼をしたとき、僕は頭を床につけながら被造物感を覚えた。それは絶対的な存在を前にした、一対一の対応関係である。

その意味で、少し硬い言葉で言えば「実存者」として、現にここに存在している存在者として僕は特殊であり、選ばれてあるのだ。

視界がぐるぐると回転し始めた。こう書けば、あなたには僕に起きていることが概ね理解されるであろう。それが選ばれてあるということの内実なのだ。

疲れた。もうぐったりとしている。そう書いている。

言葉が止まらない。なんて幸福な苦痛だろう。僕はいまワクワクしているのだ。