入院と言ったって、そんなに大したことじゃないんだ。ただ、環境を変えようという先生の提案を受け入れただけのこと。だからそんなに驚かないで欲しい。もちろん無傷なのに入院というわけには行かないから、僕だってそれなりに苦しい。

パンドラの匣 -1- パンドラの匣 -1-

パンドラの匣 -1-

パンドラの匣 -1-


入院と言ったって、そんなに大したことじゃないんだ。ただ、環境を変えようという先生の提案を受け入れただけのこと。だからそんなに驚かないで欲しい。もちろん無傷なのに入院というわけには行かないから、僕だってそれなりに苦しい。


そんなことより、ここの病院について少し楽しく書いてみようと思う。

あ、その前にこのタイトルについて一言ことわらないといけない。君も知っての通りパンドラの箱はもともと神話だけど、それを借りてきて太宰治が同名の小説を書いているんだ。風変わりな結核の療養所をテーマにした、手紙形式の青春小説と呼ぶのがいいと思う。主人公は「ひばり」という青年。

その青年が療養所の職員にうっすらと心を寄せる物語だけど、僕が書くのはそんな話になるとは思えない。なにせ、舟はでたばかりでそれどこじゃないからね。風と波を読むのに忙しくて、セイレーンの声さえ聞こえないんだ。

それに結核の療養所での恋なら淡く終わるかもしれないけど、精神病棟であってはそうも言えない。変な言葉、たとえば“陽性転移”や“ボーダー”なんて無粋な言葉で語られてしまうからね。

とはいえ、ぼく以外の登場人物を紹介しないわけにはいかない。そして、意外にも異性が多いことを告白しなくちゃいけない。君は羨ましがるかもしれないね。

まずは同じ個室フロアの人々から。

最初に会った人は落ち着きのない女性だった。歳はそうだな、三十代から四十代で痩せ型の人だ。黄色のアイラインをしていたのをよく覚えている。ここでイニシャルで書いてもいいのだけど、それじゃあまりに味気ないから雰囲気にあったアダ名をつけようじゃないか。

かえるさん。これは秘密だけど、すこしカエルっぽいんだ。それに今ぼくは村上春樹の『かえるくん東京を救う』という本を英語で読む勉強をしているから、よりそう感じたんだろう。

かえるさんは音に敏感だ。ささいな音でびっくりしてしまうから、ぼくも音に気をつけている。かと思うと、運動療法室(これはまた説明しよう)のトランポリンで跳ねていたりするから、変わっている。会って、すぐに仲良くなってしまった。

ぼくは基本的に対人関係が苦手なのだけれど、と書いたら君は笑うだろうか。いや、そうでもないね。君ならぼくがいつでも周りに薄っすらとした防護膜を張っているのを知っているね。

かえるさんとは入院して2日目くらいにはご飯を一緒に食べたよ。こんなにも人と食事をするのが心温まるものだとは思わなかった。人と食事するのが心温まることだと教えてくれたのは君に他ならないのだけど。

かえるさんとのことはまだまだ、書くことがあるけどさしあたりこれくらいにしよう。

次に登場してもらうのは、そうだな。オオカミさん。彼女はたぶん僕と同い年くらいだろう。大学を中退したと言っていたから、もしかしたら僕より年下かもしれない。黒い髪がすらっと長くて、背もすらっと高い。白い肌によくあった赤い縁のメガネをしている。それにいつも黒っぽい服を着ていて、他の人と馴れ合わないからオオカミさん。

物静かで、もしくは生気がなくて話しかけづらい。後ろ姿なんて貞子みたいだった。僕も一週間は話しかけられなかったけれど、タバコを吸った帰りに水槽の前で佇んでいたから話しかけてしまった。

まったく、自分でも驚くべき行動力だよ。ぼくはいつからこんなふうになったんだろうね。

いつもお部屋で何をしているのかと聞いたのだと思う。そしたら、日記を書いたり、本を読んだりしていると言っていた。僕も太宰が好きなんだと言うと、彼女も太宰が好きだと言うからびっくりだ。

すぐに『パンドラの匣』の話がでた。太宰と入院といえば『パンドラの匣』と相場が決まっているんだ。僕らはふたりとも、新潮社の文庫版で持ってきていた。それから大学の話を少しした。

彼女はサルトルなんかも読むらしい。サルトルの小説や戯曲が好きだと言っていた。なんという偶然だろう。それをさっきかえるさんに話したら「運命だよ、告白しちゃいなよ」なんて茶化された。

その会話いらい、挨拶をすると返してくれるようになった。

昨日なんて、ついに向こうから挨拶してくれたんだよ。このときの喜びを思い浮かべて見て欲しい。はるか地球から離れた惑星のようなところに、同じ小説を持ってきている女性から声をかけてもらう。

魅力的でないわけがないじゃないか。君にこんなことを書けば、かえるさんのように恋だなんだって言い立てるかもしれない。けど、ぼくだってそんな子どもじゃない。異性との関係をすべて恋愛に置き換えるなんて無意味だからね。

そうは言ったって、孤独な入院生活にあってこんなに趣味の合う人に会うなんて想定外だ。

なんて思ってた矢先に頬をひっぱたかれた。

彼女は昨日、退院日が決まったと言うのだ。今週末に出て行くという。

会者定離。
  1. 今週末ならあと五日もあるね。
    五日あればアポロに乗って月まで行ける。
    事を成し遂げるには十分な時間だ。

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  2. Anyoneさん
    コメントありがとう!そうだね。でもこれは先週に書いたものなんです(笑)
    そうやって考えると、5日間というのはとてつもない時間だね。

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  3. じゃあ遅れて書いたラブレターだねw
    彼女ブログ読んでるのかな?笑

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  4. だから、ラブレターじゃないって!
    そして個人情報はいっさい交換してないので、ブログは読んでないだろうね。

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