とりあえず、入院ということで。 大学“院”を目指していたはずが、いつの間にか精神科へ入“院”してしまったということになる。じつに皮肉だ。(笑えない)けれど、ある哲学の先生が「重度の人は病院へ、軽度の人は大学院へ進むのです。」とおっしゃっていたから、あながち間違...

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とりあえず、入院ということで。


大学“院”を目指していたはずが、いつの間にか精神科へ入“院”してしまったということになる。じつに皮肉だ。(笑えない)けれど、ある哲学の先生が「重度の人は病院へ、軽度の人は大学院へ進むのです。」とおっしゃっていたから、あながち間違った方向でもないのかもしれない。




そもそも、(僕はこの表現が好きだ)人生における「方向」とはなんだろう。ある目標を持ち、それを達成するとして、その目標はいかに獲得されるのだろう。



映画『カッコーの巣の上で』の冒頭、主人公(正常であるにも関わらず、監獄での労働を嫌い、精神疾患のふりをしている)は精神科に入院するにあたり、「検査には100%協力する。なぜなら俺自身、自分が誰だか知りたいからだ」と皮肉っぽく言うのだが、今の僕はこの感じにとても近い。



あ!もしこのブログを読んでくださっているなかに心優しい人がいても(このブログを定期的に読んでくださっている人は優しい人に違いないのだが)、心配には及びません。入院理由は軽度の抑うつと自律神経失調ですので。



正常/異常の区別はフーコーという人が言うように、時代や権力によって恣意的に運用、適応される。とはいえ、こうした恣意的な枠組みが恣意的に運用できる程度には人は社会的である。



この大きな意味での“社会性”との相対関係によって、方向は方向足りうる。というのは、右が右であるのは、自らの身体と外界との対応関係のことだから。



「反社会」というのが端的な例だと思うけど、ある行為がどういった意味を持つかは、その社会との関係によって定義づけられる。殺人にしても、強姦にしてもそれが反社会的であるのは、社会という大きな価値の向きに逆行しているからだ。

戦時中なら殺人はむしろ賛美されるし、強姦だって「男の甲斐性」みたいな言い方をできる。(僕はこのどちらも、大嫌いだ)つまり、人の行為の意味は社会文脈によって断罪されたり、褒められたりするというわけだ。



浪人生という、今の僕は社会から外れてしまっている。対人関係こそかろうじて維持しているものの、社会システムのエアポケットのような場所だ。



それを、それでも座標を知りたくてこの文章も書いているわけだけど。



少なくとも、いまのこの自分が誰なのか、僕には保証できない。いったい僕は何者なのだろう。



「まっすぐでいるか、もしくはまっすぐにされるか」アウグスティヌス



入院前にね、とりあえず『ハンニバル』のドラマ版の1シーズンだけ見ちゃおうと思って見終えたんですよ。ほんと面白かった。



このドラマの主人公はFBIの捜査官なんだけど、天才的な共感能力をもち犯人に感情移入することで犯行を解き明かす。けれど、その代償として自分が誰なのか分からなくなり、ハンニバル・レクター博士にカウンセリングを受けるだが…みたいな展開。



もちろん僕は天才ではないにせよ、小さい頃から規範に合わせるタイプだった。それは外的な規範を内面化し、それをアイデンティティにすること。社会規範に共感しないにせよ、そのままいけば、それなりに社会に順応できたと思う。



けれど、ある時「これはなんだかおかしい」と気がついてしまった。いわゆる青年期における「自我の形成」という段階だけど、そこから雲行きが怪しくなってきた。



自分探しというやつですね。



で、行き着いた先は「問い続ける」というものだった。今のところ。もう少し妥協的になんとなく進路を決められればよかったのだけど、頭も悪いし、要領も悪かったので、問題の前でうろうろし始めたわけ。



これによって失ったものも多いけれど、得ているものも無いわけではないと思う。少しずつであっても、自分の欲望を知り、それを邪魔するものから避け、充足する術をぼんやりと見つけ出してきている気がする。



そうこうしている間に入院しましょうということになった。



それ自体は良いことではないが、それでも“最善”の選択なのかもしれない。僕にはわからない。



そんなこと言ったってハンニバル見た後だし(見なきゃいいのに)、やっぱり精神病棟への入院ってイメージ悪い。隣の部屋にサイコパスが居やしないかと心配になるし、精神科や心理士さんにいろいろと内面的なことを聞かれると憂鬱になる。



幸いこの病棟はうつが専門で、それ以外の疾患の人は少ないようだから、拘束服に身を包まれた人に出会うことはなさそうだけど、ちょこっと外に行くにも許可がいるし、危険物のリストの中には割れるコップまで含まれている。



この危険物という概念も恣意的に運用されている。もし僕が自殺しようとか、他殺しようと思えばあらゆるものが危険物になる。「割れるものはダメなんです」と言うから、「iPhoneも割れるけど平気?」と冗談で聞いてしまった。



もちろん彼らに悪気がないのは百も承知だ。しかし、“問いの深度”が浅いのは否めない。精神科医は「脳」もしくは「心」を前提としている。彼らが「存在」や「現象」の位相において、つまり「生と死」について深く思考していないのは明らかだ。(これは職業上、どうしようもないことだ。)



いわば深淵から目を背けて蓋をしようとしているのだ。



私たちが存在しているとはなんなのか?私たちとは誰なのか、あなたはなぜあなたであり、私ではないのか…そういった問いから始めていては、いつまでも治療にたどり着かない。



これらの問いをさしあたり無視して、応えないこと。それらが彼ら“大人”の態度だ。社会的な生活において、これらの問いは禁忌とまでは言えないまでも、無用なものとして扱われている。



しかし同時に、ある人々にとってこれ以上に切実な問いもまたないのだ。




『カッコーの巣の上で』のラストが突き付けていたのはまさにこの問題だった。生とはなにかを身体感覚によって問い続ける主人公に対して、大人たちはその問いを無視することで決着をつけた。



もし大人たちが彼と共に一瞬でも悩めば、(大人は子どもであったのだから、悩んだはずだ)あのような結末を迎えることはなかっただろう。反社会的という行為の前提を問うていれば、あの結末は避けられただろうと思う。



僕たちは、(僕たちとは、とりあえず僕と君のことだ)彼らの無視に対して寛大さと解体によって対抗しよう。攻撃的に言い換えれば軽蔑と啓蒙である。



真面目さに戯れを持ち込むことによって、有意味には無意味によって、力へは非力さによって、それらと対立せずに懐柔することを覚えなければいけない。



入院によってむしろ憂鬱であったはずだったのに、文章の結末がこのように終わることに僕自身がいちばん驚いている。



これだから文章を書くのは止められない。