海は荒れている。これまでだって何度も嵐に巻き込まれてきたけれど、今回は療養と思って来た場所がこんなところだったのでやるせない。けれど、救いもある。いまこうして君に手紙を書くこと、この全く無為なことだけが僕を奮い立たせているんだ。

パンドラの匣 ―2― パンドラの匣 ―2―

パンドラの匣 ―2―

パンドラの匣 ―2―


海は荒れている。これまでだって何度も嵐に巻き込まれてきたけれど、今回は療養と思って来た場所がこんなところだったのでやるせない。けれど、救いもある。いまこうして君に手紙を書くこと、この全く無為なことだけが僕を奮い立たせているんだ。


人は暗闇のなかに光を見出す動物なのかもしれないね。

今日は別階の人たちについて書こう。先に喫煙者ふたり。一人はビーバーさん、もう一人はワニさん。ビーバーさんは僕と同い年くらいで、ワニさんは30代の女性だ。喫煙所で最初に話しかけてくれたのもビーバーさんだ。

ビーバーさんはトラウマがあるらしい。どんなものかはもちろん聞いていないけど、なんとなく男性と関係がある気がする。なので治療の前後日はあまり話さないようにしている。元気だったときは海外ボランティアなどにも行っていたらしく、普通に話している分にはとても優しい人だ。

対してワニさんは少し攻撃的なところがある。元ヤンなんて書いたら殺されるだろうけど、なんとなくそんな感じがする。けれど、こういうタイプの不良はいいやつが多い。いいやつというのは、とても人間味あふれるという意味だ。社会通念に順応できず、持て余した思いを自分や周りにぶつけてしまう。

だからワニさんは時々、脱走する。ここにいるのが耐えられなくなるらしい。この前もハロウィンのパーティがあるからといって、脱走したけど捕まってしまった。カエルさんは「そのほうが彼女のためだ」なんて言っていたけど、僕にはわからない。

そもそも病気という概念自体、僕は怪しいと思っている。病気というのは、なにか絶対的なものではなく社会との間で生み出されるからだ。とくに精神病はそういう側面が強い。だから、彼女が脱走したいならさせておけばいいと思う。それで苦労するのは彼女だろうし、そのことも知っていてそれでも脱走するからだ。

苦しみを知ったうえでなお選択したことだけが価値あることだからね。

ここの人たち全員に当てはまることだけど、ふたりとも気分の浮き沈みが激しくて困る。ある時はボディタッチしてきたり、無視されたり、正直振り回されている気がするよ。

でも基本的に悪い人たちじゃない。僕は彼女たちのように人間的な人が好きだよ。悩んで、泣いて、自分に振り回されて、怒って、自傷して、それでもなんとか生きている。

哲学者の中島先生も書いていたけど、生に悩み、それでも生きていることが倫理的なんだ。苦悩しない人生に価値なんて欠片もないよ。

次に紹介するのは、カメさんだ。カメさんはたぶん鬱か何かで、薬を飲んでいていつもぼーっとしている。髪にパーマをかけていて、四角い縁のメガネがチャーミングだ。しゃべるのも、食べるのもゆっくりで、歳は僕より下だろうと思う。

けれど、彼女は先日退院してしまった。早く薬の量が減ることを心から祈るよ。結局、症状が激しい人は鎮静効果の高い薬が処方されるから、非人間的なまでにぼーっとしてしまう。他の患者さんも同じことを言っていた。

現代のロボトミーだね。向精神薬と言えば聞こえはいいけど、ほんとうに非人間的な行為だと思うよ。それも、人を救うなんて大義がつくからなおさらタチが悪くて、不気味だ。

やはり似たような症状のキリンさん。彼女は年齢不詳だ。なんとなく若い気もするけど、もしかしたら僕より年上かもしれない。今は薬で落ち着いているけれど、その副作用で寝たきりになり、少しずつ身体を動かすリハビリをしている。

だから、この人もとてもゆっくりと動く。前はもっと気性が激しかったらしく、自傷なんかもけっこうしていたらしいけど、今はとても温厚に見える。行動療法のなかでは特に歌が好きで、その時だけはお化粧してきたりする。女性にとっての化粧というのは非常に興味深い価値観だね。

そしてさしあたり、最後の登場人物はペリカンさん。この人はわりと歳だと思う。いつも杖をついて歩いているけれど、お洋服について迷ったり、自分のピアノを聴かせたがったり、少し子どもぽい。いつもアースカラーのタートルネックを着ている。

この他にも、カピパラさんや、カバさん、フラミンゴさん、あとは男性のオラウータンさんと、カメレオンくんがいるけれど、あまり話さないので置いておこう。

これで登場人物はだいたい網羅したと思う。

今日の主人公はワニさんにしよう。ワニさんはいつも歯に衣着せぬ物言いで、ビーバーさんもそれに振り回されているところがある。男性看護師さんにもボディタッチするし、女性看護師さんの胸を触ったりやりたい放題だ。

なら鈍感かと言えばむしろその逆だ。乱暴に振る舞う人は二種類いて、もともと粗野な人と、繊細さを隠そうそして粗野を装う人。ワニさんはたぶん後者であるがゆえに、周りからいつも誤解に曝されているのだろう。

デイルームにいたら『孤独と不安のレッスン』という本をそっと持ってきて、「私は「偽物の孤独」に当てはまるんだと思う。きのちゃんが考える本物の孤独ってなに?」と聞かれたので、「それは自分が他の誰でもないことだと思う」とまじめに答えてしまった。それに加えていろいろ説明したけれど、わかってもらえたかどうか分からない。

とりあえず本を貸すからその感想を聞かせて欲しいと言われたので、さらっと読んでみた。自己啓発系ではあったけど、面白い本だったよ。

なかでも、他者と他人の区別は面白かったかな。もちろん哲学的に厳密な意味で使われていたわけではないけど、「他者」を理解できない「他人」として描いていた。そして成熟とはこの他者とうまくやっていくことだと書いてあった。

おおむね僕も同意できる。けれど、もし僕なら「他人のなかに他者をみつけることこそ、コミュニケーションの第一歩」なんだと付け加えるだろう。理解し合えるなんて“ない”と身体の芯から理解して、その上でコミュニケーションを開始すること。

理解できないから話し合うこと。簡単に納得しないこと。話しヅラを合わせて相槌をうちながらも、心の隅で釣り針をひっかけておくこと。常に他者は自分を超越していると思うこと。

そういう観点からワニさんと接していると、ほんとうに面白いよ。分析するのでもなく、共感するのでもなく、理解するのでもない。もし積極的な言葉を使うなら、存在者として接するとでも言うべきだろうか。それはとりもなおさず、僕自身がしてほしいことなんだけどね。

けれどそんな話ができるようになった彼女とは今週でお別れだ。退院するらしい。「さよならだけが人生だ。」なんて言葉もあったけど、そんな感じがするね。入院というのは、新しいコミュニティを一時的に構築して、またそこから抜けることなんだと考えると判りやすいかもしれない。

それは日常生活のなかでもしていることなんだけど、こういう特殊な環境だと浮き彫りになって見えるね。入院は嫌なことの連続だけど、驚きの連続でもある。

暗いから見えることもあるんだと僕は信じているよ。